人間の価値なんて信じていない

能力/生産性/価値について

半ば、自分のように日本の学歴と中途から転げ落ちた人間にはわかりかねるのだけど、今でも学歴至上主義的な考え方は根深い。当然、専門家してゆく職業のなかで学歴というフィルターをかけたほうが良いというのは理解できる。ただ、ひとつのアンダーグラウンドで中卒・高卒関係なく仕事を成してきた自分からしてみると、そのよなフィルターがかかる一つの要素に人材教育への投資が無いという側面が見える。優れた才能などではなく、物覚えの良し悪しや、それまでの生活基盤上の手際の良さなどから見て、作業を遂行する時間の違いなどはある。だが、教え、リードしていけばいずれ出来るようになる事にも拘わらず、それを「手間暇」などと言って負のイメージと連関させるような人間は、ぼくにとっては敵である。それは自分が社会に出るようになったとき、何も持っていなかった、自己否定への拒絶という意味もあるかもしれない。
だからぼくは人材への投資は、いわば労働に於いてのインフラだと考えている。個々人にモラルが問われるようになり、企業の採用面接前にSNS監査があったり、就職後もSNSの利用は更に監視の目が置かれる。それにより更にSNSの匿名性は上がり、匿名性から発される強い言葉・差別的な発想は多くの人を傷つける可能性がある。最終的に、SNS上の自我を会社の損益としてコスト化しなければいけなくなる時点で、人材投資はその段階において失敗しているのだろう。

働き始めてから、あるいはインターネットでSNSを使い始めてから、いったいどれだけの「自分に価値がない」という言葉を目にしてきただろうか。直接的な言葉でなくとも、さまざまな表現によって目の当たりにしてきた。とはいえ、ぼく自身も自分に価値があるかと思っているかというとそんなことはない、だが価値というのは局所的な文脈でしか役に立たず、にもかかわらずぼくたちを苦しめる言葉である。

およそ、近年の価値というのは生産性やアウトプットなどの言葉にリンクされているのだろう。いかに短い時間で成果を出すか、というにてぼくも価値という言葉を使う。ただ、もっと広義な「人間として」というレイヤーで利用されることも多い。
これを善としている人たちは、労働こそが人間を形作ると考えていて、納税額を偉さと捉えている傾向があって、なにより生きることに抵抗が無いとぼくは見ている。サンプル数は十数名だが、発想の土台が違うなあと感じている。

生産性などは確かに資本主義下、あらゆるモノや経験がたいていお金で買える世界では一つKPIとして重要なのかもしれない。だがその世界においても、福利厚生はあり、福祉がある。当たり前だが、人は自分の視界に無いものは経験することができない。経験がないという事は、そこに注意を払うことも出来ないし、思考することもできないということになる。ぼくはいろんな言葉に虐げられた…という感覚が少し濃いほうだから、あまり強い言葉を使いたくない。文章を書く上で面白いのは断定することだと分かっていながら、なかなかそれに踏ん切りがつかない文章ばかり書く。これは辛うじて残る自分のやさしさなのかもしれない。

自己否定的な感情は、当人は「私/僕は」という主語で考えていても、述語は主語に追随する。そしてその感情は、可能性の形として「あなた/誰か」へ矛先が向く。例えば、この仕事ができない自分はなんて無価値なんだ…という発想があったとして、それは果たして自分にしか向かな言葉なのだろうか?と考える。
ぼくはセールス畑の人間であるが、営業売上で圧倒的に自分よりも上の人間が「売上出てなくて本当に価値が無い」などと言い始めたら暫く具合を悪くするだろう。セールスの例えであれば所属企業や商品によってケースバイケースであることは当然理解していても、売上が属人的な価値に換算されてしまう時点で闇の深い話である。

何かが出来る/出来ないというのは、環境や職場によって全く異なる。おれはケアレスミスを10年近く繰り返しているが一向に学ばずセルフチェックの回数を増やして多少回数が減ってきたという程度、片付けに関しては今後を諦めるレベルで物が無くなる、そうでなくともここ3年くらいで4回ほど財布を落としている。だが、検収書などでもほぼミスなく出来る人や、細かいデータ作業を平気で出来る人、片付けが素晴らしく出来る人は、「ぼくには出来ないことが出来る」という風に見えている。ただしそれによってぼく自身の価値がどうこう、などはない。その人が活かせる場所と環境があり、ぼくにとってもそうであるように、そのような配置関係の差異を人材教育への投資などもせずに「人間の価値は…」などと宣う人がいるならば、ぼくは強烈に批判する。そのコンテクストに限定して言えば、その主張をする人間がもっとも無能なのだ(こんな話を書きながら泣きそうになる)。

その分野において自分が不出来なことを、自分は…人間は…などの主語で考えてしまわないで欲しい。それが鋭利であればあるほど、自分が思ってもいない人への言葉にすり替わり得る。ただし、ぼく自身の立場としては、生きるも死ぬも選択の一つであり、自殺を選んだからといってそれを否定したくはない(少なくとも現段階の考えとして)。

「今を当たり前だと思うな」なんていう言葉は胡散臭くて聞く気にもなれないけど、やっぱり今が最期だなという感情はつねにある。自分と関わってくれるひとが本当に有難くて、仮にいま死んでもそれほど悔いは残らない(さすがにこのブログは書ききりたいとか、注文してる商品は届いてほしいとか、次の土曜はゲームしたいとか、少しずつそういう感情はある)。

その人のどこが良いのか、という質問があまり好きではないのはそういった理由でもある。それを答えることが、その人の、あるいは自分のプレッシャーになってしまいそうになる。具体的であればあるほどぼくには危険に思えてしまう、「替えが効く」なんて本当に言わないで欲しい、決してパーツなどではないのだ。
もちろん、厳格にルール化していないから押し引き/駆け引きのなかで話をすることはあっても、自分にとっては軽い話でも相手がそう受け取ってないなんてよくある事だろう。だから、二人称(ぼく/あなた)においては必要な場面はあれど、具体的になりすぎないように気を付けている。それを属人的な価値だなんて受け取ってない、あなた自身であることをいつも受け取っている。知らないことも沢山ある、伝えられてないことも沢山ある、そうだったとしてもぼくが良いと思った相手に、そのように伝えることを憚らないでおこうと思うばかりだ。信じてもらえなくとも、それを伝え続けることに意義があるんじゃないだろうか。

参考:「その日暮らし」の人類学 小川さやか | 光文社新書 | 光文社

 

寿司を食べに行く話

朝5時、健康な時間に目を覚ます。


朝も夜もはっきりとしない生活から時間が経つが、その日は珍しくきちんと朝だった。朝と言うが、カーテンの隙間から光が零れ、冷房のしっかり効いた部屋と身体に暖かさが沁みるという漫画やアニメで見るような、典型的な朝が久しぶりだった。そんな幻のような朝に天井を見上げながらふと思った。

「寿司が食いたい」

寿司は決して好きとは言い難い。サーモンなどの脂身のしっかり乗った寿司は好きだが、マグロもサバも苦手。イクラ、タコ、エンガワとサーモンくらいしか食べれない。ただ、海も遠い地で食べる魚しか知らなかったので、折角だから海も近いこの地で魚を食べてみたかった。ワサビは一生無理だろうけど。
ふと思い立ったからには行かなくてはならない。隣で寝ていた彼女をそっと起こしてみる、非常に寝起きが悪い。とはいっても、時間問わずに出歩くのだから問題なのは朝であることと、朝ゆえの血圧の低さくらい。

決めてしまえば自分自身の身体は単純なもので、漁港のある地域に思いを馳せながらシャワーを浴びる。おじいちゃんなのか、シャワーの温度は44℃くらいで育ってきた。頭を洗うと抜ける毛が気になる年齢にもなってきた、たかが数本なのだけど。

戻ってくると彼女がむくりと起きる頃になっていた。ぼくも決して人のことは言えないが、一日中家に居続けることができるのでどうしてもダラダラとしがちだ。ただ、思い付きのままに意欲あふれるぼくに彼女も合わせてくれて、「おはよう」と言いながらニコニコと準備を進めてくれた。こういうイベントを考えるとき、ついつい走りすぎてしまう。連れる人と連れられる人がいるならば、ぼくは引き連れる側なのだけどどうも置いてきぼりにしがちだ。だから、時には不満を垂れ流しながらもいつも楽しそうに一緒に居てくれるひとの存在はとても大きい。いつも引っ張っちゃってごめんね、と思っているのだが世にはこういう形が良いという人もいるらしい、存外そういうのは話してみないとわからないものだ。

ぼくが電車や到着時間を調べているあいだに彼女が準備を終えた。随分と暑いこの夏なので、白を基調とする花柄のワンピース。いかにも麦わら帽子が似合うような服装だったが今からの本命は魚である。ところで、ワンピースと呼ばれるとイメージされるようなあの光景はなんだろうか。どうも服に拘りが無いせいか、服それぞれの名称にたいへん疎い。自分が身に着けている服でも、分類名があったら言えないかもしれない。わかるのは、似合ってることと、いい匂いがすること。

駅までの道のりはおよそ20分、だが最近手に入れた自転車を使えば10分くらい。彼女を後ろに乗せながら川沿いをゆっくりと走る。この情景だけならばなんと立派な青春映像であろうかと思うところだが、時期は夏、(暑さとして)生きるのが1年でもっとも難しい時期である。汗をかいた背中を触らせるのが忍びない、急いで駅に向かい冷たい空気を吸わなければならない。駅付近にある不動産屋管轄の駐輪場に自転車を停める、バイクを買った方が良いんだろうか。

下調べした電車までまだ時間がある。コンビニに寄り飲み物でカルピスを買い、チョコを買う。その二つを手にしたところ隣で彼女がぎょっとした顔で訴えかけてくる。

「いまから寿司だよね?」

「はい……」

五感の中でも味覚は特に莫迦で、部分的に特殊な感覚を持っている。少し考えれば、これから味わう淡白さと旨味をチョコと糖分で台無しにしようとしている。でも買ってしまったので仕方ない、平らげるとしよう。しかし結局、どちらもそこそこ残したままになってしまう。甘いものは買ってしまうのだが、結局お茶とガム程度に落ち着くことになる。

乗ることにした電車はほんの少しグレードの高い電車で横四列の座席。窓際はぼくが座り、まったりモード。目的地までは1時間、そこから乗り換えて30分くらい。本当に何でもない話が続く。

飼っているペットの話、今朝はなぜか気持ちよく起きることが出来た話、大学に全然行きたくない話、最近描いた絵の話。

人と話していると、いい話も悪い話もある。自分が想像する以上に、自分と相手はつねに異なっていて、辛さも、儚さも、希望もそこにある。わかりあえないから言葉を尽くしたり、諦めたりする。いろんな過去があって、似たり寄ったりな喜びも悲しみもあって滅入りそうなのに、目の前の相手はやはりその場にしかない。だから同じ話であっても同じではなく、簡単にわかったりしないように耳を傾ける。そうしていると、大事なのは話題そのものではなくて、その空間を共有して遊ぼうとしている自分たちだとわかってくるような気がする。言葉が欠如しても保たれる関係は、愛おしいものかもしれない。

外を眺めたり、なんでもない話をしている間に乗換も終わる。乗換はだいたいターミナル駅で途轍もない乗り換え時間になってしまう。方向音痴ではないはずなんだけど、利用が少ないとやっぱり時間がかかる。でも二人そろって迷うわけにもいかないが、二人とも路頭に迷いうるときは不思議と迷わないチカラが発揮される。ターミナルで迷う程度、大した被害でもないがそれ以上にぼくは生命維持力にあふれている。彼女の手を引きながら、乗ったこともない路線へ行き、慣れない人の多さのなか目的地へ向かう。

人を連れまわしていると、この光景はいつ終わるんだろうと考える。出会いがあって、やはり残念ながら別れもある。もちろん意図したものではない。その時にある友情も、愛情も、何もかも自分にとっては本当の形をしていて、あまりにリアルな手触りだ。

「なんで人って別れなきゃいけないと思う?」

「人間、変化に弱いから、その弱さを隠すためじゃない?」

確かに。

変化しないでと願う側は常にその思いを裏切られる。生きていれば興味も、好きも嫌いも変わっていく。その自分に都合の良い部分だけを切り取って「変化しないで欲しい」と願うのはあまりに利己的だ。人は変わり続ける、あのころに伝えた言葉も、信条も、やはり変わっていく。ぼくらはコミュニティの中に属していて、その規律が変わればコミュニティ内の人たちも変わっていく。だから、誰誰の何処何処が好きだなんて変わりゆくものなのだろう。その時々にお互い都合が良くて、引き寄せられたりする。別れるときはきっと、「あの頃のあなたはもういない」という言葉ばかりだ。彼女の言葉を反芻させながらもう少し考える。

なぜ、と考え始めると行き着くのは具体的な言葉や数字だ。相手への形容が具体的であればあるほど、そうではない姿が影を伸ばし始める。白いワンピースが可愛い(白くないワンピースは?)、朝起きることができてとても偉い(朝起きれない私は?)、ぼくを好きでいてくれて嬉しい(好きでなくなったその時は?)。それが力を持つ持たないより以前に、具体的な言葉は自分に棘のような姿を見せ始める。ふわふわとした言葉に逃げたくなる。

「でもさ、私はいつもこの関係は終わるんだろうって思うんだよね。もちろん、ずっとこのままいけばラッキーだけど、多分そんなことは無いと思う。ドライだなって思う。けど、いまこの瞬間って本物だと思わない?」

「淋しいけど本当のことだよなあ。おれも、この瞬間は本当だよ。」

本当にこれから嬉々として寿司を食べに行く2人の会話だろうか。だが目的地目前にしては現金なふたり、目の前の少し良い寿司屋に腹を空かせる。むずかしい話はカロリー摂取後だね。

人生で初めての回らない寿司、いつも作る食事とはちがう特別。もちろんワサビなんて二人とも入れない。格好をつけて日本酒を頼んで寿司と一緒にしてみると、これがまたとんでもなく美味しい。味覚雑魚なぼくでも、寿司に日本酒が合うことが悦びと共に感じられる、いや日本酒が米なのだから合うのは当然なんだけど。今日が人生最期の日でも悔いはないなあ、全部どうでもよくなってしまう。

「美味しかった~お酒も最高だった」

「あんな美味いもの食ったことない、美味しいもの食べたら毎回言ってる気がするけど、めっちゃ美味かった」

「また行こうね」

いつ、その「また」はやってくるんだろう、と考える。いや、ぼくが楽しかったのだからぼくが誘えば良いだけじゃないか。美味しい寿司を食べると考え方も前向きになるらしい。

彼女からしてみれば、いまぼくしかいなくて、ぼく自身も彼女しかいない。そんな一人称な生き方は、ここにある二人称でしか成り立たない。美味しいものを食べ終わったぼくは更に考える。

彼女の在り方を具体的にすることは安易に彼女を名前や言葉に縛り付けてしまう。自分にそんなつもりがなくとも、ぼくにとってそれは耐え難い。自分が好きなのはつねに彼女自身のことで、もちろん色んな要素はあっても、入れ替え差し替えられた彼女でも好きでいたい。これは反自然的なことかもしれないが、根本にあるのは人との付き合い方の問題だ。なぜこの人なのだろうという考え方自体から抜け出すこと、そうではなくて変わろうとする相手じたいを自分に容認すること。名前や言葉を超えて、その人を受け入れるってのがきっと愛情なんだ。

ぼくの愛情を根本的にそこに根付かせたい。きっとこれから、いろんな人は「過去こうだったから……」と自分に言い聞かせながらコミュニケーションをとってくるだろう。その感覚はきっと当然のものだし、自然な帰結だ。でも何回言われても、ぼくは今その場にはあなたしかいないと伝える。

だって、今回が最後かも知れないだろう?

ずっと迷い続けるだろう、人間関係の答えってそう簡単に出しちゃいけない。だって、お互いに精一杯なのだから、そんな状況で交わされる言葉が気軽なものであるわけがない。関係がひとつ終わるとき、その世界は閉じていく。それを積み重ねのように感じれば負担になるし、それぞれの世界だと捉えれば少しは豊かな世界が見える。

時間が経てば言葉が遠のき、いろんな暖かい記憶がよみがえる。嫌な記憶なんて持ち続けられない、いつだって残るのは良い記憶だ。そういう暖かい記憶が自分を形づくる。

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「今日は楽しかったな~」

「なんかおなか空いてきた」

えっ、と自分から声が出る

「家系でも食べようよ、いつものとこ」

「でも庶民的な味覚で終わったほうが明日には都合良いかもね」

 

 

 

【後編】不動産業に転職・就職したい人、あるいは不動産購入を考えてる人に向けた雑記

 

 はい、ということで最後です。
前・中編読み直してますが、めちゃくちゃ読みにくいですね、すみません。簡潔にすると踏み外すし、細かくしすぎると書き終わらないし自分の書く気も薄れるのでバランスが難しいところです。ともあれ残りの不動産価値について書いていこうと思います。

不動産の価値について

不動産広告で「えっ、私の家の価値こんなにあるんだ!」みたいなのあるじゃないですか。あれ誇張表現です、買った時より高いなんてほぼ無いです。

それはともあれ、日本の場合は不動産と言ったときに土地建物(上物)に分かれます。なので土地単体で取り扱ったり、登記もそれぞれで行うことが出来ます(そうせざるを得ないと言うべきか)。欧米では逆に建物が土地の附合物ということになるので、登記的には「土地買ったら家もついてきた」ということになります(国交省PDF参照)。とはいえ、日本でも建物の価値が完全になくなった不動産に関しては古屋付き土地などと呼ばれて建物は残存していても土地として扱われることもあります。

日本では登記が異なるということは、土地と建物それぞれに価値を与えるということになります。例えば5000万円の物件があったら、業者の利益を考えなければ3000万の土地価格と2000万の建物価格というふうな形になります。ここから日本の不動産価値について考えてみます。

まず土地の価格に関してです。

https://www.land.mlit.go.jp/webland/

・港区の公示価格

港区の価格は壊れてるのですが、溜池山王エリアで4,840,000(円/m²)というエリアがありますね。半畳分の面積でほぼ500万かかるらしいです、『龍が如く0』っていうゲームでは「カラの一坪」っていう場所がとんでもない価格で取引されそうだったんですが、それを思い出します。
この公示価格というのは日本の特定のエリアの土地価格になります。なので、細かい場所の単価についてはわかりませんが、大まかにはわかります。あとは周囲の不動産価格を調べていれば、およその目安はつくかと思います。細かく知りたい場合は路線価というものを用いて算出します。ただ、大抵の場合はここまで利用することは無いと思うので、付近の不動産価格・土地価格を調べれば済みますが詳細に推移など知りたい場合は不動産業者が出していたりする路線価の推移なんかを見るといいと思います。

 

建物の減価償却について

土地については先ほどの内容で価格が決定されていますが、建物(上物)に関しても考えてみると、建築費用+マージンが物件価格を決定する要素となります。更にそこに該当土地の費用を足したものが全体の不動産価格になるということです。

では、新築時がその方式だったとして誰かがその物件を買ってすぐ売りに出す場合はその新築販売時のマージンが無くなるということになるので土地代+残存建物価値が中古販売価格になるということになります。一部不動産CMでは「鍵を開けた瞬間に不動産価値は20%ダウン!」みないなことを言っていますが、つまりこれです。実際のところはマージン率にもよりますがおよそ20%程度と考えて大差はないかと思われます。

では、その建物の価値について考えてみます。土地というのは周辺環境などによって価格が決定するものの、購入から何年、何十年経過しようと劣化はしません。ただし、その地域の開発などによって土地価格が何倍にも上がるような場合は、購入時より売却時の価格のほうが高いというようなことがあり得ます。
一方で建物の価値はというと、木造建築なのか鉄筋コンクリート造なのかなどの建築方法によって異なるのですが耐用年数が定められています。

https://www.tax.metro.tokyo.lg.jp/shisan/info/hyo01_02.pdf

例えば、日本で最も主流な木造建築の場合は法定耐用年数は22年となっています。つまり、法律上では木造の住宅は22年経てば残存価値はゼロになるということと言えます。また、不動産売却の際は算出方法によってはこの法定耐用年数をベースとして土地価格+残存建物価格によって算出することになります。

 

新築 or 中古

先ほど法定耐用年数の話を書きましたが、これは築20年の中古物件が販売されていた場合、その価格の大半が土地価格ということになります(建物の価値がほとんどゼロになってしまっているため)。

近年見かける中古+リノベーションというのはこの建物価値に着目した家探しとなっています。その地域で新築を買うのは高くて難しい、買いたい物件はあるが間取りが気に入らず他を探すとエリアがずれてしまうなど、ひとつの選択肢として主流になりつつあるような印象です。現にぼく自身も、該当地域の新築は難しくとも中古物件にある程度のリフォーム・リノベーションを加えることで住まいを手に入れたというお客さんを複数組担当したこともあります。

現在、不動産業に微塵も関わっていないので主観で考えますと、新築か中古かみたいな論争があるとき、ぼくは中古寄りです。といってもすべての中古をよしとしてるわけではなく、瑕疵と呼ばれる「シロアリ被害」「雨漏り」「土壌汚染」などの物件は絶対やめておきましょうと言います。ただ、しっかり柱や躯体が残っている物件であれば、固定資産税の面でもリノベーションをお勧めすると思います。固定資産税は新築時の状態を100%として年々下がっていきますが、物件で重要な部分である主要構造部に手を加えると評価額が同様に見直しとなり、高くなる可能性があるのでスケルトン工事やフルリノベーションなど大規模修繕等を行う場合は注意しましょう。
さて、「不動産を買います」と言ったときに何から決めるかというと、エリアでもなく、駅までの距離でもなく予算からになると思います。仮に予算が億単位でエリアが首都圏外ならば広い土地を買って注文住宅を依頼するというケースになりますが、一般的には2000~8000万の予算でファミリー層向け、つまり子どもの通学などを踏まえたエリア決定になると思います。転校させるのが嫌なので同じエリアで検討したい、通勤が今2時間かかるのでせめて1時間そこそこまでにしたい、駅まで遠すぎるので10分以内の距離にしたい、近くのスーパーや商業施設がなくなってしまったので便利なところに住みたいなど、要望はいろいろあったりしますが、予算はやはり有限、かつ銀行借り入れになることがほとんどなので自分のコントロール外になってしまうと思います。
銀行借入額に関して言えば、大手銀行の場合「額面の年収×8」くらいをベースに、現在の健康状態や就職先や雇用形態などによって前後します。公務員で勤続の長い方などはかなり伸びやすい印象です。一方、事業主の場合は事業化から3年ほどは経っていないと難しい印象があり、長い方でも直近の決算書次第な部分があります。自己決定はできないため、住宅購入を考えてる方にはまず事前審査というものを行って頂きます(基本的には不動産会社で書類やデータ入力をして後日審査結果が出る形)。そこで、希望借入額が叶うかどうか、適う場合は適応金利が通知されます。希望借入額が叶わない場合は、そもそも借入不可でなければ減額にて通知されることになります。
近年の住宅ローンは超低金利なので、変動であれば0.4~1%程度となると思います。そして事前審査をパスすれば、その通知借入額以内で物件を決定して本審査を行い、その後物件引渡(決済)まですぐ動くという流れになります。

そして、予算をもとに新築を選ぶか中古リノベーションを行うかということにおよそ大別できますが、中古リノベを選ぶ際は下記を参考にしてください。余談ですが、中古マンションを購入する場合は修繕がほぼ必須になります。

1. 予算内で希望する新築物件がない(間取り、広さ、環境、etc)
2. 他の人と同じデザイン(内装・外装)は嫌だ
3. 売却前提で考えている、ライフイベントに応じたスケジュールがある*1
4. リノベーションに強いこだわりがある
5. 中古リノベーションで検討する場合、購入する不動産会社にて住宅ローン+リフォームローンを組むことができる*2

 

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↑暈してますがスケルトン後に躯体等入れ替え含めるとこんな感じになります、断熱材丸見え

逆に言えば、上記項目にあまり引っかからなければ新築物件などを選べばよいということになります。また、リノベーション費用に関しては一概には言えないのですが、壁紙張替え、床の張替え(フローリングではなくクッションフロア)、水回り交換などの最低限を行っても300~500万ほどになり、広さに依存するためマンションと戸建で異なります。フルスケルトン工事となると1000~2000万のレンジになり、水回り設備のランクによってかなり大きく異なることになります。そのあたりはショールーム見学に行くと具体的になってくるので、リノベーションを考える際はぜひ色々回ってみてください。リノベーションの工期は仕入れ状況にもよりますが、表層であれば1週間、フルリノベーションとなると3ヶ月前後となります。工期は自由に現場立ち寄れるので、その際にイメージが浮かんできたり、追加依頼などもそこで出来たりします(追加請負になるか予算内で対応してくれるかは正直会社によります)。

さて、長々となりましたが結論はこのようになります。

1. 近年は特に物件が飽和しているので中古リノベ、あるいは新築の簡易リノベとい選択肢がある
2. 予算内で希望新築があればそちらで問題なし、なければ中古リノベの選択も
3. ライフプランに応じた住み替え(戸建→マンション)などを明確に描いている方なら、中古リノベは勧められる

回し者のようになりますが、ぼく自身は自分で買う時にも検討に入るくらい、最近のリフォームやリノベーションは色々とできます。なにか買うタイミングなどあれば、ぼくでも良いですし、最寄りの不動産屋さんに聞くと良いと思います。店舗に行くと追客されてしまうので足が重くなる理由もわかります。また細かい話は別記事に上げるかもしれません(検討する人が近くにいれば書くモチベーションにもなるんですが…体験記とすると体系的に書くことができないですね)。

それではまた

*1:建物の減価償却を考えれば、築15年などの物件購入価格は売却価格と大きな相違が起きづらいため資産としての管理がしやすい

*2:リフォームローンを別に組む場合は金利が3~4%で支払年数が最大15年などの制約を受けるため、合併ローンを利用できるところがおススメ

痛惜という感情

「何かに救われた、救われてしまった」と自認してしまうと、誰かへ、何かへ、どこかへの感情がますます高まってしまう。それを普通は依存などと言って忌避される傾向がある。だから、依存先を増やすことで自分のいろんな感情を多くの場所にすこしずつ置いて、バランスを取ることが良い。自分のchaosな様々をひとつにぶつけるのはあまりには難しい。すべてを知り得ない場所は、人は、それを解消なんてできない。都合の良い部分でお互いに分かり合えるという、その局所性が救いになっている。

でも、そういう救われ方ではなく、唯一であるからのという救いもある。少しずつ選択して、いつも自分に正しさを訪ねながらやってきた。trustのようなものが確かに自分にはあり、文字通り不動なものとして繋がりを築いてきた。いきなり崩れたりしないように自分が変わっていくことも選びながら進めている。

それでも、感じることがこんなにも苦しいが、崩れるということはいきなりやってこない。おれにとってバランスというものが非常に重要で、つねにどちらに傾いているかを考えてしまう。これは贈与性とは部分的に反しているのだけど、恐らく過去のどこかでそれを感じる所があったんだろう。

おれの求めたものはこれから出てこないかもしれない。そもそも、自分以外を変えることなんてできない。だから、依存するならば自分のスキルに、自分の努力にすべきなんだろう。自分が想像しているよりも、ベクトルは自分に向くことは少ない。

ひとつ、自分の感情も終わっていくことが淋しい。

【中編】不動産業に転職・就職したい人、あるいは不動産購入を考えてる人に向けた雑記

 

nekondara.hatenablog.com

 ということで、前回は不動産業という市場について少しお話しました。今回は、不動産のお金にまつわる部分についてぼくの知り得る範囲で書いていこうと思います。不動産の今後の価値取引方法についてなんかは、これから不動産購入を考える方にとっては少し役立つものかと思います。

不動産仲介業における収入

賃貸に関しては全く無知なのと、新築マンション販売も別の世界なのでここに興味のある方は個別にお調べください。

ここでは不動産仲介(新築戸建・中古戸建・中古マンション・土地)に関わる部分でお話します。まず結論、不動産業の中で恐らく一番個人の収入が高い傾向にあるのは投資用不動産販売です。ちょっとぼくも詳しくないのですが、例えば山手線沿線にあるワンルームマンションなどをアッパー層以上の方々に販売するものです。

www.nri.com

 その販売するマンションが自社不動産なのか仲介なのかという部分でぼくは理解が無いのですが、どちらにせよ販売価格は1億~数百億までのふり幅があります。簡単に、50億程度のマンションを2件販売すると粗利がおよそ税抜3000万となります。その2件が年間の販売数だったとして、細かいP/Lは抜きに業務委託形式の算出だと仮定すると、人件費が月間35万(年間420万)、広告宣伝費が月間150万(年間1800万)で合計2220万円となりおよそ780万円が概算としておよその営業利益になります。
営業外利益や特別損益は今回計上しないものとして、その780万が純利益なわけですね。それをすべて営業個人に還元すると会社がなくなってしまうので、およそ20%~50%くらいの幅でインセンティブという還元になると思います。そうすると、よければ年間390万近くがインセンティブとなり、固定給が額面420万となれば810万円が収入となるような気がします。つまり年間2件さえ売れば、額面でいうとそこそこ貰える感じですね。ただ50億規模となれば即決ともいかず、かつアッパー層以上へのアプローチなのでかなり大変だと思います。コンスタントに黒字を出し続けているような企業の役員にアポを取るということなので、まあ取り次いでもらえないですね。
これに関しては不動産だけではなく、証券の営業さんなどもいつも苦労しているところだと思います。受付突破とか、電話とかDMとか、資料問合せとかいろんな方法はありますがかなり地道な作業です。あと、アッパー層に関してはネットの口コミではなく自分の信頼する相手からの評判で動くという傾向が非常に高いのでそういう部分も苦労があると思ってます。ただ、自分の投資するものを自分で全て調べるかというとぼくの知り得る範囲ではそういうわけではないです。暇じゃないので、信頼が一定以上上回れば意外とベットしてくれる印象はあります。
ちなみに自社不動産か仲介かという部分を書いたのは、それぞれの利益率が違うからですね。これに関しては次項で説明します。

そして不動産仲介の場合ですが、粗利が3000万ほどになれば最終的な収入着地は投資用不動産の場合と同様で年収810万くらいになると思います。といっても販管費、特に広告宣伝費の割合が会社によってかなり差があるので同条件での目安と考えてください。

ではどの程度販売すればそのくらいになるかというと、物件販売価格の合計がおよそ9億1000万くらいになれば粗利の着地は3000万くらいになります。なんでその額なんだという話なんですが、不動産売買の仲介は国交省によって報酬額が規定されてるんですね。詳細は下記URLの「報酬告示」になるんですが、つまり400万円以上の不動産売買は物件価格×3.3%が報酬上限なわけです。
つまり、いわゆる仲介手数料は3000万/0.033=約9億900万≒約9億1000万という感じ。また別項で説明しますが、この3.3%というのは片手仲介の場合のみなので両手仲介の場合はもう少し目標売上は下がるかと思います。

www.tokyo-takken.or.jp

自社物件か仲介かと言ったのは、自社物件の場合例えば3000万で仕入れて5000万で売れば2000万の粗利なので算出が別なんですね。新築戸建の販売を専門としてるような不動産屋(I田グループとか)はまた別ということです。あくまで仲介業ではこういう仕組みなので、給与計算はこれをベースにしながら会社の販管費や会社への内部留保率を見ていくと大体わかってきます。

ちなみにインセンティブってのはたいてい四半期、半期などのボーナス反映が多いような印象ですがこれは不動産屋によって違います。半期などの反映の場合だと、月間の販売件数によって個別の賞金(販売件数×2万とかそういう)があったり、宅建免許持ってたら月収が+3万とかだったりします。それは不動産業の求人広告に掲載あったりすると思うので、個別に調べてみるといいと思います。
結論、不動産売買の仲介業は(当たり前なのですが)結果次第で短期間の中で自分の収入を上げることも出来るし学歴やスキルを予め持っていなくてもそこからの勉強やスキルを磨くことでどうとでもなる世界であると思います。

 

片手仲介と両手仲介

さきほど片手仲介両手仲介という言葉を使いました。片手仲介というのは購入するお客さんからのみ仲介手数料を貰う取引、両手仲介というのは売るお客さんと買うお客さんの両方から手数料を貰う取引のことです。この記事が非常にわかりやすいです。

www.reds.co.jp

そもそもなのですが、不動産の売買というのが不動産業者の独占的な市場なので売りたい人も買いたい人も不動産業者に行くわけですね。上の記事にもありますが、家でもなんでも売るときは少しでも高く売れる方が当然嬉しいのですが、家を買うときは少しでも安い方が嬉しいわけです。このお互いの利益が異なる状態のなか、1社の不動産業者のみでその物件を仲介するのは利益相反と呼ばれます。とはいっても、他に方法があるわけではないのですが問題視されがちというものです。

この利益相反は両手仲介でのみ起こりえます。その家を売りたい人と買いたい人を1社で抱え込んだ場合ですね。一方で、片手仲介というのは売りたい人の不動産を買いたい人を自社で探せない場合にREINSに掲載するなどで他の不動産屋に来るお客さんが買うケースがあります、もちろん逆のパターンもあります。この場合は、売る人か買う人のどちらかのために価格を高めに設定したり、逆に値引き交渉(指値)をしたりとそれぞれの立場で契約を進めることが出来ます。

両手仲介になる場合というのは、他社の新築戸建の場合再販物件(リフォームして販売されている物件)の場合売主と買主を自社で抱え込んだ場合の3つです。新築戸建てや再販物件の場合は、その家を売りたい(持ち主の)不動産業者からも仲介手数料を貰えるわけですね。その場合は、例えば6000万の新築物件を成約すれば粗利約400万ですね。新築の場合は建物(上物)が課税対象なのでちょっと計算方法が異なりますが、だいたい400万です。

つまり、仲介業のみやっている不動産屋は1件当たりの利益を増やすために両手仲介が可能な物件に誘導する可能性があります。これはぶっちゃけあり得ます、ぼくのいた不動産屋はそれにこだわる必要がなかったので片手であれ両手であれウェルカムでしたが、仲介しかやってない業者なんかだと違うこともあるみたいです。もしお客さんとして行くことがあれば、執拗に自社物件や新築、再販を勧めてきたら危ないと考えてもいいと思います。

【後半へ】

最後は不動産の価格の推移や、最近流行りの中古リノベーションについて話します

【前編】不動産業に転職・就職したい人、あるいは不動産購入を考えてる人に向けた雑記

役に立つか立たないかわからないが、転職市場の規模として非常に大きな不動産業について自分の経験を書き残しておきます。
これから不動産業に転職します、就職しますという人や、家を買うけどどうしようというと悩んでる人が見つけたらラッキーくらいの記事です。ただ、営業的な観点になるので買おうとする方はもしかすると「そういう目線で見られるのか~」となるかもしれませんが、そのあたりはあくまで私見なので流してください。

注意:不動産購入を真剣に考えている場合は個別にご連絡ください、もしくは不動産会社へ足を運んでください

 

不動産業という市場について

 まず不動産屋は一生食っていけると思います、これはほぼ間違いない。これは、そもそも不動産売買というものが免許制(宅地建物取引業者)となっていて、一般・民間での売買が不可能となっています。この内容は宅地建物取引業法(業界では業法と略されたりします)によって定められてるので、このルールが崩壊しない限りは土地も建物も不動産業者にしか扱えないので、かなり固い職だと思います。

 

不動産にはどんな職種があるのか?

 職種というか、不動産業の中でも売買をする会社と賃貸をする会社、あと一部管理会社が分かれているという話です。ぼくは売買の人間で賃貸のことは全然知らないんですが、売買の場合はREINS(Real Estate Information Network System:不動産流通標準情報システム)というところに情報掲載が義務づけられています(※例外あり)。
一方で賃貸の場合、掲載は可能ですが義務ではないため売買の人間からすると正直どういうプラットフォームを使って営業してるのかは謎です。それらしいプラットフォームはあるようですが。
また、管理会社は基本的に大手不動産の子会社が多いのでここでは除外します。賃貸に住んでる方が鍵を失くしたときに連絡するときのあの管理会社です。ちなみにぼくは最近鍵を失くして、鍵を開けるために数万払いました。

つまり、売買の人間は賃貸のことをあまり知らないし、逆に賃貸の人間は売買のことをあまり知らないと思います。この前、Twitterで元R社系賃貸不動産だったと言う人が売買について話しててそれっぽいことを言ってややバズってましたが半分くらい間違ってました。たぶんあの人、宅建宅地建物取引士)資格を持ってないです。

そして、売買のなかで新築マンション販売・中古マンション販売・新築住宅販売・中古住宅販売・注文住宅販売というジャンルがあり、新築マンション販売と注文住宅販売は完全に独立しています。そのため、一般的な不動産屋に行くときに扱えるのは新築/中古の一戸建てか中古マンションのみです。

 

不動産業に就職するために必要なスキル

普通自動車運転免許のみです。これさえ不要な可能性はありますが、多分ないと一生テレアポDM要員になると思います。といっても、エージェントで調べるとほぼ必須資格に入ってるので、基本的に持ってないと厳しいと思います。
実際、銀行行ったり現地行ったり、お客さんを乗せて運転したりとするのでちょっと運転は気をつけなきゃいけないのですが、最近の新築物件なんかはかなり途轍もない場所にあったりします。幅員がギリギリ車幅一台分くらいだったり、建築基準法の例外的な立地だったりします(業界では2項道路と言います)。なので、入ってからなかなか大変な道を運転することは(しかもお客さん乗せながら!)少なくないような印象です。

スキル面ですが、これもあまりないと思います。というのも、特殊な技能を用いるわけではないので、事前に準備できることもそんな無いことと入ってから嫌でも勉強する必要があるのでそのあたりは不要かなと。ただ、基本的にはDM・テレアポ・対面面会など、とにかく会話することが多いのでそこに抵抗あるひとは難しいです。営業になるのにそこに抵抗ある人は多くはないとは思っていますが。

不動産業の休みについて

ちょっとこれは会社に依りそうなので一概には言えないかもしれないのですが、あまり休みは取れない可能性はあります。

これは仕事にあたって誰とやりとりするかというところから考えてみます。
まず、お客さんはほとんど個人の方です。公務員の方だったり、サービス業の方だったり色々ですね。そして、家を買う方はもうほとんどファミリー層なので夫婦で不動産屋に行きます。ぼくの知る限り、たいていのお仕事というのは土日休みが多いので土日に不動産屋を閉めるとお客さんが来なくなっちゃうんですね。なので基本的には平日の火曜・水曜を定休日、もしくは毎週水曜+隔週火曜日を定休にしてるケースが多いです。
で、そういうお客さんが契約になってローンを組みますという話になると次は銀行と司法書士の人とやり取りをするようになるんですね。で、この銀行と司法書士の人たちはいつ休むかと言うと土日なわけです、もちろん月曜・木曜・金曜などでやり取りが終わればいいんですが数千万から数億の買い物がこの程度で済むわけがなく、しかも不動産屋は市役所にも走ったり、契約書作成などやることも多いのでいよいよ平日休めません。
そうなると火曜・水曜は返上してでも作業をしなくてはならず、結果的にあまり休みがないという風になる印象です。ただ、大手不動産の場合はこの一部作業を専門だやる部署があったりするので、必ず休めるという不動産屋もあるのかもしれません。

例外的にですが、投資用不動産専門の会社なんかだと土日休みになるケースがあります。これは富裕層と呼ばれるような、役員の方や曜日関係ない個人事業主の方、トレーダーなどを顧客としてる場合、平日のみの接客にして土日休んでる場合もあります。

こんな風で全体的に忙しそうですが、とはいっても売れなければ忙しくならないのでお客さんありきですね。契約までより契約後の方が圧倒的に大変です、といってもほぼ形の決まった作業になりやすいので慣れたらそんなに時間はかからないと思います。休みは少ないかもしれませんが、会社によってはその分インセンティブがつくので年収で言うと700万~1000万くらいのレンジなら、2年目くらいで入る可能性はあります。その場合は宅建資格は取っといた方がいいですね。

 

【中編へ】

次は不動産の取引方法(片手・両手)と給与のお話から書こうと思います

生活を今からでも運ゲーにしすぎない方法を考えている

重要なのは、いかに微細なものであれ、ひとつでも細部を忘れてはならないということです。(レヴィ=ストロース

この頃になって、もう少し知識つけとかなきゃなと思うシーンが多くなり勉強を始めた。といって、勉学については圧倒的な劣等生として生きてきたのでどうやって勉強すればいいかもあんまりわかっていない。中高ともに、定期考査はほぼ全科目平均点くらいか、ちょっと下だった(日本史世界史に関してはほぼ赤点だった)。満点を取った記憶はないけど、点数がほんの少しよかったのは古典・地理・生物・数学で、浪人してからは地学もよかったくらい。テスト勉強なるものをほとんどせず、授業もあまり聞かず、平気で悪い点を取り続けたので今の状は当然みたいなところ。

 

それで勉強をしながらノートとかを取っていた時、たまたま出版された『すべてはノートからはじまる』という本があったので、それを読みながらノートをつけたりとか勉強をしたりとか、あるいは生活ハックとしてのメモ術みたいなものを考えていた。

そもそも、過去1年くらいは手文字を書くことがほとんどなく、PC上で完結することが多かった。しかし、何かを書くという行為が過去20年くらいが手書き文字によって生成されたいることを考えれば、何かを考えたり創り上げたりする作業自体はまだ自分にとっては手書きによって結び付けられてるらしいというのがノートを書き始めてすこしわかってきた。

 

nekondara.hatenablog.com

 

自分のノート術というか、メモだったりタスク管理だったりに関してはこの記事を書いたころとあまり変わっていなくて、基本的にGTD準拠でTodoistとEvernoteをベースにしながらやりくりしている。といっても、そもそも何かを続けるという事自体が不慣れなので平気で1ヶ月くらい更新しなかったりする。Todoistなんかだと、「寝る 毎日午前2時」とかでToDo入力すればデイリーに出てきてくれるので新規追加が必要ないということもある。それでも強制力を伴うものではないので、意思の力でまずそのアプリを開くというのが出来ない。じゃあ意思決定としてのコストを下げましょうとなるわけだが、これもあまりうまく組めず今に至っている。
結局のところ、無理せず続けられるものに絞ったほうが何かと良いというのが結論となった。その意味で言うと、PCやモバイルを必須とするアプリケーションなどではなく、ふつうのノートにまず絞ったほうがよさそうな気がした。

gtd-japan.jp

 

そして、そもそもノートを必要とするにあたってなんでだと考えていたが、これは生活を運ゲーにしすぎないためという結論が出た。きれいごと抜きで、生まれた段階でかなりの部分が不自由を浴びてると思っている。生まれた土地や家柄の時点でそもそも違うだろうし、そこからなるようになった現在も含めて結構どうしようもないことは多いんだと思う。

ではなんでわざわざノートやねんという話になるけど、まず自分の場合いろんなことが覚えられない。まず人の名前と顔が覚えられない、その次に人の話を覚えられない。

 それに公共料金の支払いも結構忘れたりすることが多かったし(今はアプリ出て少し楽、あとすぐ払うようにした)、人との約束もまあそこそこ忘れる。全部お前のせいやんという話なんだけど、ようはそれが出来なくて困ってきたという話。名前も話も覚えなてなくてごめんな、なんて万単位で思ってきたけどもうこれは不治の病っぽいのであきらめている。何か月か前からは、その人の話を家帰ってメモしたりすることでやや改善傾向にあるけど、そもそもノートやメモを取る習慣がほぼないのではじめからやり直し状態になってしまった。

自分自身のフィルターに「言葉にならないと扱えない」というものがあって、これが果たして自分が生み出した考えだったのか、どこからか拾ったのかはもう忘れてしまったが、先日の対談記事に近い話があった。

千葉 ちょっと話が広がりすぎるかもしれないけれど、具体的なことを書かせるというのは一歩目かなという気はします。抽象的に物事について判断したり、自分の価値観を言ったりさせるのは難しくて、たんに「こういうことがありました」とか、まずそこだけだったらやれるかなという気もする。
つまり、自由にものを書くという行為をどうガイドするかということだけど、「たとえば1年前の夏にあなたはなにをしていましたか?」みたいなことから始めて、それについてどう思ったかということを次のステップにして、抽象性を少し上げていくというアプローチは考えられますよね。
あまり普段ものを考えずに生きている人、という言い方はよくないかもしれないけれど、じゃあ「普段ものを考えて生きている」ってどういうことかというと、具体性と抽象性のあいだを常に行ったり来たりできているってことなんです。われわれ学者みたいな人間は、日常で見たことなどに対して、メタレベルの価値判断を常に下して、メタレベルとオブジェクトレベルを行ったり来たりしながら生活している。頭のなかで言語化が常時起こっているから、なにか出しなさいと言われたらそれをそのままワープロにインプットすればいいので、出るんですよね。
それをやっていない人は、まず抽象的なメタレベルの思考をやっていない。具体的な経験すら言語化されていない。でも具体的な経験自体はしているから、それを言語化に繋ぐのは第一歩だと思うし、抽象的なことまでは考えていないけれど感情とか価値については多少考えているから、それを言語化して具体レベルと繋ぐことからかな、と思います。

ji-sedai.jp

自分自身のコアな部分でありつつ、なのに忘れてしまうんだけど、これは大切な事なんだと思う。なぜ言葉にする必要があるのか、なぜ外部化しなければならないかというのは、そうしないと扱えないから。扱えないということは自己解決も難しく、それこそ運や流れによってしかそれが解消されないからなんだと思う。

自分の経験上、悶々としたり蹲ってしまうようなときは言葉を発していない。その時の自分から言わせてみれば「そんなもんできたらやってるわ、アホ」という状態でしかないんだけど、やってないからそうなってるんだよ、おれ。

悶々とした不満が外部化されずに膨らんでいくと、感情的になったり、泣いてしまったり、自分への攻撃が増えたり、身体に傷をつけたりすると思う。ゲームしてて台パンするのも自分にとってはその理屈。だから、小さな発見やらなんやらでもすぐメモしたりノート取ったほうがいいなと思っているが、細かいタスクにしすぎると習慣化されなくなるのは自明なのでそのあたりは細切れにしすぎないという大胆さも必要な気がしてる。

習慣に関しては、自分のことを棚上げして言うと『The Powe of Habit』という本が実践的で面白かった(日本語訳で文庫化されてるはず)。いわゆる、習慣形成というものを実際の現場の例を用いながら分析している。その結果、新たな習慣を形成する方法・既存の習慣を断ち切る方法を提言してるが、まあちょっとレベルが高い。ただし理屈は確かにと思うものがあるので、工程は今も大いに影響がある。

習慣というものを考えてると、吉本隆明が『悪人正機』の素質に関して語った言葉を思い出す。

いつもいうことなんですが、気結局、靴屋さんでも作家でも同じで、一〇年やればだれでも一丁前になるんです。だから、一〇年やればいいんですよ。それだけでいい。
他に特別やらなきゃならないことなんか、何もないですからね。一〇年間やれば、とにかく一丁前だって、もうこれは保証してもいい。一〇〇%モノになるって、言い切ります。
(中略)
それから、毎日やるのが大事なんですね。…これについちゃ、素質もヘチマもないです。素質とか才能とか天才とかっていうことが問題になってくるのは、一丁前になって移行なんですね。けど、一丁前になる前だったら、素質も才能も関係ない。「やるかやらないか」です。そして、どんなに素質があっても、やらなきゃダメだってことですね。

プロセスが大事とか、才能だとか、まあそういう話は往々にしてあるにしても、結局のところ続けなきゃ意味ないよってこと。もしかすると古い考え、言葉なのかもしれないけれど鈍器のようによく効くテクストなので大事にしている。

そういえば、『すべてはノートからはじまる』の一節で「ノートなんて取るより行動したほうが早い」という部分があり非常に納得してしまった、本節ではそうではなくノートをとる意義を語るんだけど、自分もメモなんか取らずにすぐやっちゃうタチなのであんまりうまくいかなかったんだなあと感じ入った。勢いだけじゃなく、慎重さも持ち合わせていたい。

でまあ、運ゲーになりやすい要素って猪突猛進というか、思い立ってすぐやってしまったり、よく考えずにジャッジしちゃうことなんだと思う。新規事業やりますってときとか、新しいスキル身に着けますってとき、結構自分もやりがちだけど超理想的な未来を描いてしまう。過去何十、何百という失敗の経験から逃れて全部がうまくいく未来を考えてしまう。自己啓発なるものが流行るのって、こういう「どんな失敗があろうと、あなたの未来はここから変わる」みたいなリスクゼロなところが気持ちいいのかもしれない。
しかし、実際やりましょうってなったらほぼ失敗する。失敗したときのフローがなく、取り戻すための方法も準備されていない。前職で新規事業立ち上げから関わって、まあ見事に失敗したんだけど、これはもう100%それだった。新しい自社サービスをやりましょうってときに、いついつから運用してここで投資があって、この資金繰りはこういうふうにやって、顧客がこれくらいついてというような明るい話はみんなできる。けど、じゃあ全部失敗したら?ということを誰も考えないし、トップの前でそれを言う胆力が誰にもなく、結果的にすぐ赤字になって終わった(そしてその赤字分は営業が駆り出されて補填というよくある話)。

失敗例しか持ってないけど、明るい話よりリスクをたくさん考えたほうが良いというのが、大きな話でも自分だけの話でも重要な要素だって気付かされた。「うんうんそれは素敵な話だね、じゃあこの最初の部分で頓挫したらどうするの?」ということを気持ちとか気合とか、精神論でしか説明できないのであれば絶対にやめたほうがいいんだなって自分ルールを敷いた。自分のやりたいことをやることと並行して、ちゃんと自分が陥ってきた失敗のことを思い出してあげることが全部運ゲーにしないための要素なんじゃないだろうか。自分にとっての初歩がノートをとるとか、メモを取るとかそういう部分にあって、楽しそうなことは迷わずやるというふわっとした決断を持ちつつも、その決断の後にしっかりリスクを取れる準備を進めておこうと思う。
(個人がやることにどの程度リスクが伴うねんって話ではあるけど)

そして、ジャッジするときにうまくいく判断をし易くする方法は身体論に帰着する。『アイデア大全』の「賢人会議」しかり、『制作へ』のインタビューであるインストールしかり。

——— つまり、創造性を自分のコアにしないと、目減りしていくだけで、もはや立ち行かないんだと。これはアーティストに限ったことではなく、今では企業においてもイノベーティブであることが最重要の価値となってきています。だから、上妻世海の制作論は、状況論的に言っても、有意義でおもしろい。
イノベーションには、メソッドがないんです。自分が置かれた環境のなかで、自らの身体性で以て自己判断できなければ、イノベーションの運動を起こすことはできない。つまりイノベーティブであるための「方法論」があるとすれば、それは「クリエイティブな身体性を持つ」ということに尽きるんだよね。
スティーブ・ジョブズでもジェフ・ベゾスでもいいんだけど、彼等はクリエイティブな身体性を持っていたと思う。アナロジカルな運動性を自分の身体に落とし込んで、統計やマーケティングに関係なく、なにが正解なのかを自己判断して、「これは正しいんだ」と直観的な確信をもって市場に挑んだ。根拠はないけど、アナロジカルな身体性による自己判断で「正しい」んだと。
では、「クリエイティブな身体性」を育むには、どうすればいいか。たとえば、ピカソを自分にインストールする。それは、必ずしもピカソみたいなアーティストになりたいという人に限らず、すべての「クリエイティブな身体」を望む人にとって有効になる。起業したいからジョブズの本を「参考にする」というんじゃダメで、むしろデヴィッド・ボウイを掘ってみる。そうすれば、この「掘る」というプロセスのなかで、起業に必要になるアナロジカルな身体性が育まれていく。
そうやって、読む人を「クリエイティブな身体性」へと誘う魅惑を孕んでいるのが、上妻世海の制作論なんですよ。クリエイティブなプロセスにどうやって参入していけばいいのか、さらに「クリエイティブな身体性」がどう機能するのかということまで、多角的に解像度の高い形で示して、読む人をコーチングしている。つまり、ただ読解して終わりじゃない。「クリエイティブな身体性」を獲得するための「エクササイズ」への誘惑であり、同時にこのテキスト体験自体が「エクササイズ」でもある。

ekrits.jp

 

これを書く自分自身への戒めとして、言葉にしておく。