自分のことを語り直すということ

 

自分の「学びたい」という欲はいったいどこが原点だったんだろうと考えていた。

あまり勉強熱心ではないと自負しているものの、ごくまれに没入的に何かを考え続けることがある。自分でもすごく生き生きとしていると感じるし、とても幸せな時間だ。その始まりはいつだったんだろうか。

実は、その具体的なエピソードは思い出すことができていない。
けれども、「知識をいうものがどうやら色々と繋がっているらしい」という事実を子どもなりに実感した時から、没入感を得られるようになったような気がする。

知識というものは単一ではなく、有機的な双方向性を持つものだ。

これは言わなくてもなんとなるわかるが、その文章をどこかで見聞きしただけなら腑には落ちない。腑に落ちるというのは、自分にとっては「自分の言葉で語り直せるとき」に起こるんだと思う。
その体験が何度か積み重なって、自分の言葉になり、昇華され、自分の原則として言葉に収まり始める。こうしてぼくにとっての言葉が出来上がり、真実を得たという幸福感に包まれた。

自分という場所での言葉では、よく「Reword」という言葉を使っていた。この自分にとっての世紀の発見がほかにも発見者がいることがわかってくる。

例えばTEDでこんなセリフがあった。

You can edit, interpret and retell your story, even as you're constrained by the facts.

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6:40くらいから「Story telling」について語っている

すなわち、自分の人生という事実があったとしても、多様な解釈の余地があり、その解釈によって自分の生きがいを持つことができるということを語っている。

 

また、『<ほんとうの自分>のつくり方』でも似たような言及がある。
いまでもたまに「無意味感」に襲われてしまう自分への戒めも込めて、少し長めの引用をする。

 

日々の生活に意味が感じられない、無意味な毎日が虚しくてしようがないという人は、目の前の現実に意味を与える文脈として機能する自己物語をもっていないのである。毎日が虚しいのは、意味を感じさせてくれない現実に問題があるのではなくて、現実に意味を与える文脈を投げかけることのできない自分自身に問題があるのだ。気持ちのもちようで色あせていた世界が輝いてくるなどと言われたりするのも、こうしたメカニズムをさすものと言える。

世界と自分を意味のある形につなげてくれる自己物語をもつことで、目の前の世界に意味があふれてくる。意味を経験する前提として、現実の出来事と自分をつなぎ、世界を意味づける物語的枠組みを獲得する必要があるわけだ。

 

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なにもせずとも、勝手に目標を決め、そのための手順や道筋を立てられる人なら何ら問題ないと思われる。残念ながら、自分がそうでないならば唸りながらこうして「言葉じゃない状態のもの」から少しずつ輪郭を持たせ、身体に染み込ませていかなければならない。

だが、ぼくにとってはその瞬間が楽しい。

 

組織を転々としているとわかってくることがある。
強烈なリーダーシップを発揮できる人というのは、こうした「自分への意味づけ」の能力がとても高い。周りからすればこじつけ同然と思われるようなことでも、自分という物語のイベント(そしてポジティブな帰結となる)として捉えている。

それを周囲の人間含めて巻き込んでいく能力が高すぎる人が、いわゆるリーダーシップを持っている人なのだと思う。自分と無機物、自然、動物という世界で物語を語ることがひとつのStory Tellingだとすれば、組織、環境という他人の世界まで巻き込んでいくのがHistory Tellingともいえるのだとう。

解釈というのは無数にある。
心身的にシビアな状況のときはその選択肢なんて無いものに思え、事実としてつらい現実しかないように思えるが、その振れ幅から戻ってきたときに光明が見えることもある。それを光だと感じられる余裕が果たしてその時にあるかということでもあるが、それにはやはり一定「外の世界」を感じておく必要があるような気がする。

 

歩くことの理想とは、精神と肉体と世界が対話をはじめ、三者の奏でる音が思いがけない和音を響かせるような、そういった調和の状態だ。歩くことで、わたしたちは自分の身体や世界の内にありながらも、それらに煩わされることから解放される。自らの思惟に埋没し切ることなく考えることを許される。

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こんなことを考えていると、「ああそういえばあの本にはこんなことが書いてあったな」と本棚を眺めて探し始める。うろうろとしながら、自分の思考、物語を拡張しながら背表紙を眺める。

その昔、山本七平エルサレムに住むユダヤ人を訪問した際、そのユダヤ人は山本七平が訪れたことに気づかないほど夢中であった。夢中であるというのは、書斎そのものが心理的に安全であることに他ならない。

また、ある人とぼく本屋に行ったときにはあれだこれだと話をしているといつの間にかエピソードと一緒に、手にいっぱいの本を持たされたこともある。

こういうことが、つまりは書斎や本を媒介にして「全体で考えている」ということなんだろう。世界との接点を持つというのは、こうした身体を思考させるための方法(Hand Craft)なんだと考えさせられる。

 

こんな風に考えていると、自分という物語は引用で支えられ始めるような思いをする。
誰が語ったのかはあまり重要ではない。自分が腑に落ちたその感覚・言葉がある別の場所にある場所、モノに共鳴し、あるいは人に共鳴し、その様々を自己物語の引用句の中に引き入れる。

そうして自己拡張していく。

自分という物語をある段階で振り返るとき、その引用の数々が自分の立ちゆく先をぼんやりと指し示してくれる。その風に乗るように、学び、理解し、また新たな物語として再解釈していく。こうしたプロセスへの好奇心が、ぼくの学びの原点なんだろう。