空の蒼さ・空の昏さに溺れそうになる

私たちと地続きの、おなじ現実を生きてきた彼女にしか、見えないもの、言えないこと

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希望のような物語が苦手だ。
もっと力を抜いて適当に生きていてやろうと思うのに、この身体は強張り、うまく動いてくれない。いつの間にか漂う空気が薄くなり、呼吸が難しくなり、どこでもないような場所で溺れそうになる。

この生活にはずっと絶望が流れている。それ自体はもうどうってことはない、自分の求めている救いや癒しを形にすることも出来ず、慣れたような表現によって、見知った自分を形容する。自己否定的な表現が自分を更につくりあげる。半ば諦めつつ、ただし諦めていないこころの志向性によって地に足を付ける。生活を続けるなかで自分が自分から離れてゆき、二面性・多面性を帯びてくる。自分であることを半分投げ捨て、半分が舞台役者になる。こんなに自分一人ではだめだとわかっているはずなのに、また自分を諦められていない。

 

自分を構成する要素は、今は殆ど無いが実家へ対する憎しみと、仕事と、色恋沙汰のみっつ。閉塞的な感情を育まされた実家、頭でっかちをたたき割ってくれた仕事、終わったものからもまだその頃を拾い続ける色恋沙汰。数年にいっぺんでも京都に帰ると、当時の苦しかった記憶が呼び起こされる。あの頃の自分を正当化するためについた嘘、そこから逃れるために吐いた血を思い出す。

欺瞞だらけの自分は随分頭でっかちで、なんだってできる、なんでもできる、何でも知れると思っていた。そういう自分を殺してくれたのは仕事だった。「お前自身ではだめだ」といことを暗に伝えられるづけるような日々、自分の考えが仕事に於いての正解からどんどんかけ離れていくのは得難い経験だった。自分を活かすとかいうひとつの理想論は、目も当てられないような泥臭い作業の上にしか成り立ってないということを教えてくれた。でもそれは逆に、友人が持つ現在の後ろ側にある、傷つきながら進み続けた姿も教えてくれた。

自分にとっての恋愛は常にあらゆる終わりに向かっていて、破滅が見える。いや自分にとっては恋愛とは破滅に向かう行為であり、自分の生活・記憶の中に他人を迎え入れる行為なんだろう。願わくば恋人に溺れたい、そして一緒に死んでほしい。どういう風に死ぬのが綺麗か、なんてよく考えていた。相互依存的になることばっかりだったけど、相手の世界に飛び込んでる以上それも仕方なかった。しかしまあ、他人から見た歪な関係というのは当人らからすれば完成した世界なんだろう。

「その人さえいれば生きていける」というのは嘘だと思うが、その人がいなければ自分が成立しなくなることは起こり得る。そういう居場所を探している。

ふらふらとしていたらこんなところまで来てしまった。手ぶらだったはずなのに、いろんな感情とともに手が空かなくなってくる。ひとつずつ落ち着いて荷物を置いて、また旅に出てみたい。ああでも、旅をするならだれかと一緒にしてみたい。旅はいいかもしれない、歩くのが嫌いでじっとするのも嫌いで散歩も旅行も全然しない。話をすることができれば退屈しないし、楽しい。スマホなんてなくとも相手との世界がそこにあり、全部の時間が愛しくなる。そこで終わってしまってもきっと素敵なものになる。

ふたり旅、楽しそうかもしれない。