寿司を食べに行く話

朝5時、健康な時間に目を覚ます。


朝も夜もはっきりとしない生活から時間が経つが、その日は珍しくきちんと朝だった。朝と言うが、カーテンの隙間から光が零れ、冷房のしっかり効いた部屋と身体に暖かさが沁みるという漫画やアニメで見るような、典型的な朝が久しぶりだった。そんな幻のような朝に天井を見上げながらふと思った。

「寿司が食いたい」

寿司は決して好きとは言い難い。サーモンなどの脂身のしっかり乗った寿司は好きだが、マグロもサバも苦手。イクラ、タコ、エンガワとサーモンくらいしか食べれない。ただ、海も遠い地で食べる魚しか知らなかったので、折角だから海も近いこの地で魚を食べてみたかった。ワサビは一生無理だろうけど。
ふと思い立ったからには行かなくてはならない。隣で寝ていた彼女をそっと起こしてみる、非常に寝起きが悪い。とはいっても、時間問わずに出歩くのだから問題なのは朝であることと、朝ゆえの血圧の低さくらい。

決めてしまえば自分自身の身体は単純なもので、漁港のある地域に思いを馳せながらシャワーを浴びる。おじいちゃんなのか、シャワーの温度は44℃くらいで育ってきた。頭を洗うと抜ける毛が気になる年齢にもなってきた、たかが数本なのだけど。

戻ってくると彼女がむくりと起きる頃になっていた。ぼくも決して人のことは言えないが、一日中家に居続けることができるのでどうしてもダラダラとしがちだ。ただ、思い付きのままに意欲あふれるぼくに彼女も合わせてくれて、「おはよう」と言いながらニコニコと準備を進めてくれた。こういうイベントを考えるとき、ついつい走りすぎてしまう。連れる人と連れられる人がいるならば、ぼくは引き連れる側なのだけどどうも置いてきぼりにしがちだ。だから、時には不満を垂れ流しながらもいつも楽しそうに一緒に居てくれるひとの存在はとても大きい。いつも引っ張っちゃってごめんね、と思っているのだが世にはこういう形が良いという人もいるらしい、存外そういうのは話してみないとわからないものだ。

ぼくが電車や到着時間を調べているあいだに彼女が準備を終えた。随分と暑いこの夏なので、白を基調とする花柄のワンピース。いかにも麦わら帽子が似合うような服装だったが今からの本命は魚である。ところで、ワンピースと呼ばれるとイメージされるようなあの光景はなんだろうか。どうも服に拘りが無いせいか、服それぞれの名称にたいへん疎い。自分が身に着けている服でも、分類名があったら言えないかもしれない。わかるのは、似合ってることと、いい匂いがすること。

駅までの道のりはおよそ20分、だが最近手に入れた自転車を使えば10分くらい。彼女を後ろに乗せながら川沿いをゆっくりと走る。この情景だけならばなんと立派な青春映像であろうかと思うところだが、時期は夏、(暑さとして)生きるのが1年でもっとも難しい時期である。汗をかいた背中を触らせるのが忍びない、急いで駅に向かい冷たい空気を吸わなければならない。駅付近にある不動産屋管轄の駐輪場に自転車を停める、バイクを買った方が良いんだろうか。

下調べした電車までまだ時間がある。コンビニに寄り飲み物でカルピスを買い、チョコを買う。その二つを手にしたところ隣で彼女がぎょっとした顔で訴えかけてくる。

「いまから寿司だよね?」

「はい……」

五感の中でも味覚は特に莫迦で、部分的に特殊な感覚を持っている。少し考えれば、これから味わう淡白さと旨味をチョコと糖分で台無しにしようとしている。でも買ってしまったので仕方ない、平らげるとしよう。しかし結局、どちらもそこそこ残したままになってしまう。甘いものは買ってしまうのだが、結局お茶とガム程度に落ち着くことになる。

乗ることにした電車はほんの少しグレードの高い電車で横四列の座席。窓際はぼくが座り、まったりモード。目的地までは1時間、そこから乗り換えて30分くらい。本当に何でもない話が続く。

飼っているペットの話、今朝はなぜか気持ちよく起きることが出来た話、大学に全然行きたくない話、最近描いた絵の話。

人と話していると、いい話も悪い話もある。自分が想像する以上に、自分と相手はつねに異なっていて、辛さも、儚さも、希望もそこにある。わかりあえないから言葉を尽くしたり、諦めたりする。いろんな過去があって、似たり寄ったりな喜びも悲しみもあって滅入りそうなのに、目の前の相手はやはりその場にしかない。だから同じ話であっても同じではなく、簡単にわかったりしないように耳を傾ける。そうしていると、大事なのは話題そのものではなくて、その空間を共有して遊ぼうとしている自分たちだとわかってくるような気がする。言葉が欠如しても保たれる関係は、愛おしいものかもしれない。

外を眺めたり、なんでもない話をしている間に乗換も終わる。乗換はだいたいターミナル駅で途轍もない乗り換え時間になってしまう。方向音痴ではないはずなんだけど、利用が少ないとやっぱり時間がかかる。でも二人そろって迷うわけにもいかないが、二人とも路頭に迷いうるときは不思議と迷わないチカラが発揮される。ターミナルで迷う程度、大した被害でもないがそれ以上にぼくは生命維持力にあふれている。彼女の手を引きながら、乗ったこともない路線へ行き、慣れない人の多さのなか目的地へ向かう。

人を連れまわしていると、この光景はいつ終わるんだろうと考える。出会いがあって、やはり残念ながら別れもある。もちろん意図したものではない。その時にある友情も、愛情も、何もかも自分にとっては本当の形をしていて、あまりにリアルな手触りだ。

「なんで人って別れなきゃいけないと思う?」

「人間、変化に弱いから、その弱さを隠すためじゃない?」

確かに。

変化しないでと願う側は常にその思いを裏切られる。生きていれば興味も、好きも嫌いも変わっていく。その自分に都合の良い部分だけを切り取って「変化しないで欲しい」と願うのはあまりに利己的だ。人は変わり続ける、あのころに伝えた言葉も、信条も、やはり変わっていく。ぼくらはコミュニティの中に属していて、その規律が変わればコミュニティ内の人たちも変わっていく。だから、誰誰の何処何処が好きだなんて変わりゆくものなのだろう。その時々にお互い都合が良くて、引き寄せられたりする。別れるときはきっと、「あの頃のあなたはもういない」という言葉ばかりだ。彼女の言葉を反芻させながらもう少し考える。

なぜ、と考え始めると行き着くのは具体的な言葉や数字だ。相手への形容が具体的であればあるほど、そうではない姿が影を伸ばし始める。白いワンピースが可愛い(白くないワンピースは?)、朝起きることができてとても偉い(朝起きれない私は?)、ぼくを好きでいてくれて嬉しい(好きでなくなったその時は?)。それが力を持つ持たないより以前に、具体的な言葉は自分に棘のような姿を見せ始める。ふわふわとした言葉に逃げたくなる。

「でもさ、私はいつもこの関係は終わるんだろうって思うんだよね。もちろん、ずっとこのままいけばラッキーだけど、多分そんなことは無いと思う。ドライだなって思う。けど、いまこの瞬間って本物だと思わない?」

「淋しいけど本当のことだよなあ。おれも、この瞬間は本当だよ。」

本当にこれから嬉々として寿司を食べに行く2人の会話だろうか。だが目的地目前にしては現金なふたり、目の前の少し良い寿司屋に腹を空かせる。むずかしい話はカロリー摂取後だね。

人生で初めての回らない寿司、いつも作る食事とはちがう特別。もちろんワサビなんて二人とも入れない。格好をつけて日本酒を頼んで寿司と一緒にしてみると、これがまたとんでもなく美味しい。味覚雑魚なぼくでも、寿司に日本酒が合うことが悦びと共に感じられる、いや日本酒が米なのだから合うのは当然なんだけど。今日が人生最期の日でも悔いはないなあ、全部どうでもよくなってしまう。

「美味しかった~お酒も最高だった」

「あんな美味いもの食ったことない、美味しいもの食べたら毎回言ってる気がするけど、めっちゃ美味かった」

「また行こうね」

いつ、その「また」はやってくるんだろう、と考える。いや、ぼくが楽しかったのだからぼくが誘えば良いだけじゃないか。美味しい寿司を食べると考え方も前向きになるらしい。

彼女からしてみれば、いまぼくしかいなくて、ぼく自身も彼女しかいない。そんな一人称な生き方は、ここにある二人称でしか成り立たない。美味しいものを食べ終わったぼくは更に考える。

彼女の在り方を具体的にすることは安易に彼女を名前や言葉に縛り付けてしまう。自分にそんなつもりがなくとも、ぼくにとってそれは耐え難い。自分が好きなのはつねに彼女自身のことで、もちろん色んな要素はあっても、入れ替え差し替えられた彼女でも好きでいたい。これは反自然的なことかもしれないが、根本にあるのは人との付き合い方の問題だ。なぜこの人なのだろうという考え方自体から抜け出すこと、そうではなくて変わろうとする相手じたいを自分に容認すること。名前や言葉を超えて、その人を受け入れるってのがきっと愛情なんだ。

ぼくの愛情を根本的にそこに根付かせたい。きっとこれから、いろんな人は「過去こうだったから……」と自分に言い聞かせながらコミュニケーションをとってくるだろう。その感覚はきっと当然のものだし、自然な帰結だ。でも何回言われても、ぼくは今その場にはあなたしかいないと伝える。

だって、今回が最後かも知れないだろう?

ずっと迷い続けるだろう、人間関係の答えってそう簡単に出しちゃいけない。だって、お互いに精一杯なのだから、そんな状況で交わされる言葉が気軽なものであるわけがない。関係がひとつ終わるとき、その世界は閉じていく。それを積み重ねのように感じれば負担になるし、それぞれの世界だと捉えれば少しは豊かな世界が見える。

時間が経てば言葉が遠のき、いろんな暖かい記憶がよみがえる。嫌な記憶なんて持ち続けられない、いつだって残るのは良い記憶だ。そういう暖かい記憶が自分を形づくる。

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「今日は楽しかったな~」

「なんかおなか空いてきた」

えっ、と自分から声が出る

「家系でも食べようよ、いつものとこ」

「でも庶民的な味覚で終わったほうが明日には都合良いかもね」