笑顔、切り取られた瞬間、その救い

この頃、「笑うこと」に近づいている

 いろいろな人、これまで関わらなかったような人たちとの出会いから、自分が誰かの笑顔がとても好きらしいということが発覚した。

※今回ことばを残すに至った記事、思ってることが書いてる

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まず大前提として、自分で言うのもやや腰が引けるが、ぼくは結構面白い。自分の中でも固まっていないことを言葉にしようとしているので、もしかすると結構違うかもしれない。自分の中を追っている。

ぼくはあまり誰某問わずとも、話していて自分が笑顔になることができる。そしてまた、その誰某を笑顔にすることができる。当然だけれどぼく自身が面白いというより、いや自分一人ではその辺の人間なんだけれど、誰かと自分というその空間においてその空気を自分のものにするのが凄く得意。

自分自身、人誑しか?と思うことさえある。自分の癖や能力の発揮っていうのは、その場所、コミュニティにおける自分という個体の異質さから発されるような気がする。その場において、その空間の一対一において特殊、そしてその一対一の仮想的な空間のなかで相手に安心してもらいやすい。今のところ、自分に対しての認識ってこんな感じ。

そんな空間のなかで、いろんな人がその人の「笑顔」を見せてくれることが多い。狙ってはない、むしろ自分からその人の笑顔に近づこうとしているような感覚。その時々の瞬間に、その場だけ自分が救われるような気がする。その救いは、その時々にしか顔を出さないけれど、ぼくを蝕んでいく。延々という瞬間、ここで終わっても良いと思えるような特別な空間、ますますその瞬間に触れることが増えてきた。

引き伸ばされたその瞬間、笑顔の効能

相手の笑顔というのは、自分をその場で救ってくれる。冗長的な今が苦しくてたまらない自分にとって、その笑顔というのは一旦まるごと救ってくれる。

これまで人の笑顔というものを、何かに残すということがあまりなかった。写真というものを誰かに向けることがなく、いつも空とか、海とか、木とか、猫を撮っていた。
空を撮るのが好きだ。空はいろんなものが詰まっている。考え事をするときに、あまりに思い悩んだ時に、ぼくは上を見る。それは上を見てるんじゃなくて、その先にある空を眺めている。亡くした友人の悼みも一丁前にあらわれてくる、奥さんを亡くした写真家はそれから空ばかり撮っていたらしい。自分の見つけたい答えも、欲しいものも、戻ってこないものも、ぜんぶが空にあるような気がする。青、白、あるいは黒の空は自分を呑み込む。空は自分を今から手放す、中身を全部持って行ってしまう。

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自分にとって、その逆に、笑顔というのは自分をその場に繋ぎとめる。自分が笑い、相手が笑う。あるいは、相手が笑い、自分が笑う。もしかすると、ふと一緒に笑う。その時々はあれど、笑いあったもの同士でしか共有されないその場所がある。その瞬間が幸せで、惜しくなってきていた。

瞬間を切り取る、自分にとっての笑顔の駐在

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笑顔というのはその瞬間、その場所、場合によってその人間関係のなかに完結する。けれど、笑顔という瞬間はその一時的なものであるゆえ、受け手も、話し手も幸福になる。その一瞬を切り取る写真というものを知りつつ、ぼくは誰かにカメラを向けることができなかった。

笑顔が好きらしいと気付いたのは本当に最近のことだけれど、誰かを撮るということのハードルは結構前から高かった。その中でも、誰かの表情を自分が撮るということがあまりにも難しくて、チャンスは多かったけれどずっと撮れずにいた。その時のさまざまな表情、作られた表情であることが自分の撮りたいものになんだか反しているような気がして、謎のプライドだけが強くなっていった。
瓦解した理由は、ただ表情の写真を撮ってみたというそれだけだった。「うまく撮れてるね」と言ってもらえて少し鼻を高くしながら、確かに自分で撮る表情というのはその場限りで、ちょっと切なくて、ちょっと下手な部分がむしろ自分っぽくて面白かった。自分が撮りたかったのは特別な一枚じゃなくて、自分と相手という場所の中にある日常の一部だったらしい。そこで、ぼくの特殊能力のような、なぜか相手がふわっと笑ってくれるような人間性がその表情を収めるという形の中にフィットした。

 

まだまだ数は少ないけれど、自分と相手のその場における笑顔を切り取るということに自分が救われている。たまたま持ってる、芸人のような話し方や、なぜか笑わせてしまうようなヒューマニティ、今はそういうものを持ちながら一番いい部分を攫っていきたい。