「私」と「君」、関わりたい部分

そのひとの部分は言葉に現れると信じている

ぼくは比較的言葉によって自分をつくったり、だれかと関わったりするので、言葉の立ち位置が重要になっている。過度ではないにしても、一定以上はその人がどんな言葉を使っているかということでバックグラウンドや、今の状況をあらわしているというふうになるんじゃないのだろうか。

そうはいっても、感情の過剰な部分、その溢れた部分が食に流れたり、睡眠に流れたり、消費に流れたり、創作に流れたり、表現に流れたり、自傷に流れたり。ここで自傷というものが出てくるのは自分らしいなと思うけれど。言葉による自傷、肉体的な自傷、どちらもある。

ぼくは、なんだか言葉に流れることが多いから、言葉をもってしか誰かの理解に努めることができない。その人を眺めながら、言葉を交わしながら、その人の像を自分の中につくりあげていく。文章コミュニケーション、ぼくは削ることができないのでなるべく全部を書くか、当たり障りのないことを書いてしまう。ほんとうだったら、一緒にいられるその時に言葉を尽くしたいなあと。自分が思っている以上に、その人に対して言葉を尽くそうとしていて、ほんとうは全部書きたい。本当はね。

文章を長くするのは得意なのに、文章を短くするのが苦手。言葉を多く尽くすということが必ずよしというわけではない、クリティカルさというのはちょっとした言葉を自分に引き寄せるときに現れることもある。いま書きたいのはそういう言葉かもしれない、そうはいっても言葉を尽くしたい自分はいるので、うまく付き合ってみたい。それにしても、自分にクリティカルさを持つ言葉をふと見つけたときに、それこそ自分に対して引用をしたいような言葉を見つけたときに、その言葉を放つためにどれほどの時間、苦しさを持っていたのだろうと想起してしまう。そこからは事実かも知れない、所詮妄想かもしれない。ぼくらは、自分たちの目の前に現れたものを持ってしか判断できないから、現れたものを分析する。あってたり、間違ってたり、本人がわからなかったり。

そういう後ろ側を美談のための燃料ではなくて、ほんとうの届けたいもののために見つめていく。誰かと話すとき、そのひとの本当の部分はどこなんだろうと、内側を見つめている。

使う言葉の文化圏、わかりあえなさ

どこかで話が合わなかったり、闘ってしまったり、説明されても理解ができなかったり、仲の良さや付き合いの深さとは別の方向で「分かり合えなさ」がある。たとえば仲がいいほど、付き合いが長いほど、相手が好きなほど、その相手の理解に努めようとする。でも、時々どうしてもわからない、理解できないことが顔を出す。
うまく言葉にならないであろうそれを、一生懸命に聴こうとする。でもわからない。大事そうなのに、聴いても聞いてもわからない。

一定の深度まで至った考えや思想は、それまでの言葉を変容させてしまう。じっと、いや活発に考え続けるほどに、自分の苦しい部分、どうしようもない部分が言葉になり始める。その頃には、その出てくる言葉たちを自分が許せるかどうか、自意識の境界にある。そこを少し超え始めると、受け入れた上でより身体に馴染む言葉を考え出す。それは自分で生み出してしまうこともあれば、どこかも分からない場所、よく知りもしない本の一節にあらわれたりする。その衝撃は、自分を変える。そしてまた、自分のどうしようもなさが新しい形で、自分のモノになっていく。

そこまで深さを得た言葉は、もう違う文化圏の人たちには伝わらない。その世界から遠ざかって、ひとりぼっちになる。でも、その言葉を発し続ければあるとき気付いてくれる人が現れたりする。そういう人は絶対に大事にしたほうが良い。いや、大事にしなくたって関わらざるを、影響し合うことを避けられないのだけど。

掘っていった自分のその部分が大切であるほど、今の世界から離れていく。伝わらないという断絶が大きくなり、代わりに新しい場所を用意してくれる。そういう分かりあえなさを自分への責に帰結させず、ただ眺めてやる。何かを用意できるわけではない、きっとわからない、そういう分断を含めて受け入れる。いつか届く、届くころに自分が生きているかもわからない。分かり合いではなく、未来の誰かを孤独にしないために、自分の言葉を吐いているような気がする。

ぼくの言葉も、いつかどこかで、誰かが救われればいいなあ。そういう愛、認めなくなかったけど持っていた。

「君」に関わりたい

社会に属していると、自分が薄れてくる。自分ではなく組織、私ではなく私たち、あなたではなく皆様、主語は大きくなり、フォーカスも途方もなくなる。個人を承認することや、その個人を知ろうという意思が社会から外れてしまう。そういうものを不足させて精神が壊れてしまう人を見ていると、どうして自分はその人を助けられないんだろうと感じてしまう。こんなに人を褒める事が好きで、下手だけど本当のことを伝えられるのに、その場所がないことがたまに苦しくなる。全員を救うなんて思ったことはないが、それでも友達や、好きな相手くらいには使いたい。

どうせ当面の間、もしかすると一生、自意識から逃れられないかもしれないなら、「みんな」ではなくて「君」に関わりたい。欲深いので、言葉を尽くして語りたい。「私」と語るその羅列、そういうものを聞き入れていきたい。馬鹿らしいことも、今できないことも、本当はやりたかったことも、実は苦しかったことも、個として抱えてきたものたちを少しずつ放ってほしい。笑いと、時間と、場所と共に一旦ぜんぶどうでもよくしよう。明日じゃなく、今日の終わりに前向きになろう。

死ぬまで自分であるという苦しみ、ぼくが抱える根本はそれだ。そして時間という途方もなさ。お酒とか、煙草とか、スポーツとか、会話とか、音楽とか、温泉とか、勉強とか、セックスとか、執筆とか、写真とか、コスプレとか、仕事とか、なんだっていいけど、その場限りを満喫しよう。

 明日を嫌悪して朝まで眠れず、時間が過ぎた苦しさで涙を流したりして、それでも今日を過ごさざるを得ずに今日の何かをやる。明日を遠ざけ続けるしかできないけれど、「君」に現れるものをもっともっと知りたい。

こうして考えてると、自分が慈愛に満ちているということに苦しくなる。まあでも、出来るならばやる、できないならば様子を見つつやる、それの連続ばかりだったなあ。

理想の終わり

終わりなんてきっとすぐ来ないだろうが、終わりばかり考えてる。悠長さが許せないのかな。厭な感情はこれまで散々書いてきた。

いつでも、一緒に消えることが出来る相手を見つけたがっている。ああ、もうここでいいなって、いろいろあるけどここがいいなって思えるような相手、場所を探している。そういえば、そこになんだか近づいてるような気がしてる。

毎日笑っていて、楽しくて、そういう面を持っていることと消えてしまいたい自分に差はない。自分がいちばん美しいって思える終わり方、笑いながら消えることが出来ることを最近さらにまた考えている。そんときは色々とごめんだけど、まあ笑っておいてほしいなあ。