区分けされたこの場所から

 

久しぶりに息苦しい気分になった。
ぼくは昔から明日とか、未来のことを考えるのがとても苦しい。今日でめいいっぱい、未来の予定は途方もなくて考えたくもない。

だから未来の予定を立てるときは、なるべくいつも「無機質なタスク管理」としてカレンダーに入れている。いかに、その予定自体への精神的な負担を減らすかという優先度で動いている。
ずっと抱えている今日という日の終わりを望んでいる。今日の連続を痛みとともに感じ続けている、その切れ目をずっと探している。

ひとの感情というのはそのたびごとに揺れ動く。なにか暗闇に吸い込まれているときに前向きに受けとめることは難しく、光に昇華されているときはたいていの暗闇を晴らすほどに照らされる。その揺れ動きに自分が共鳴することにも、すこし耐えられなくなってきた。

柳のように、あるいはただ揺れ動く雲のようになびかせる。

どこか遠くで、自分の存在を溶かしてしまいたい。

 

仕事と多忙さは、自我や未来を自分の中から薄めることができるという意味ですごく良い。
機械的となれる作業を一部とし、ある程度のクリエイティブさが必要なのではと最初の頃は考えていた。ただ、あくまで凡庸なレベルでのクリエイティブさは普段の作業や習慣的なタスクから生まれてくることがわかってきた。引いていえば、多少の創造性は機械製の中に組み込むことができた。

たとえばいまの僕の近辺の仕事は恐ろしく忙しいのだが、忙しいときほど業務フローやプロセスをドキュメントにまとめていく。多忙さというのは局所的な部分効率化を思いつくことはあるが、たいていの場合は全体最適まで考慮がされない。
各所への連絡、契約締結・請求・入金確認、プロジェクトの進行確認、たびたび起こるトップダウン的な方針変換の確認、各メンバーへの仕事の割り振りなど。いろんな業務はそこら中で起こるわけだが、「何に時間をかけるのがうまくいきやすいのか」「何ならすぐ着手できるのか」という割り振りが業務プロセスなどのとりまとめからわかってくる。

個人的にはその中で、すぐできることはさっさと終わらせてしまうのが良い。雑食的に大小粒度問わず上から順に着手しても別に構わないのだけど、運悪く鉱床のような骨の折れるタスクをすぐやることになったときは山のようなタスクが積みあがることになる。
そういうものを見るとやや混乱が増すことが多いので、ぼくの場合は小さいものはタスク化する前に淡々と終わらせてしまうことが多い。自分という機械の性質次第でのFit&Gapがなんなのか、最適が何なのかはすこし俯瞰的に見るだけでもわかってくる。

 

どこまでを自分の機械的な作業にするのか次第だろうけど、ぼくは少しでも明日を考えなくて済むように、ただその日の作業に没頭だけしていられるように感情とは距離を取って打ち込んでいる。

自らに枷を付けることによって、生活という区分けに自らをつなぎとめている。