自分の見ていたい世界

すごく触発された文章に出会うことができたので、忘れないように覚書を残しておきたい。

むかしのこと

十代後半の頃から「自己同一性」というものに取り憑かれていた。ある種の狂気であるともいえるけど、自分と言うメンタリティをある軸において一本線で考え続けてきたのであった。過去から現在という流れをのなかで、自分と言う個人を軸にして考えざるを得ない。なんとなく決められたルートがあり、気づいたときには外に踏み出す勇気も出ない自分がいた。あの頃に植え付けられたものは、どこかの誰かが積み重ねた常識と呼ばれるような塵の山で「人間ならば、」「若者ならば、」「男ならば、」という枕詞に呼応する術語が刷り込まれていったのであった。そういう固定観念みたいなものは、家出をしたと同時に一気に不快な感情として湧き上がってくるようになった。

井の中の蛙大海を知らずとはよく言ったもので、多感な青年時代なんて精神的接触の多い両親の影響を大きく受けるんだって、家を飛び出てからわかったのだった。外で味わったのは、まったく違う人間たちばかりで、ゆるふわ温室育ちの自分には刺激があまりに強かった。自分にできたのは、好きだとか嫌いだとか、固いとかやわらかいとか、ただ単純な要素ばかりだった。当時のぼくには、具合だとか、グラデーションを感じられるようなこころはなく、ものすごく単純に割り切って考えていたような気がする。

 

アイデンティティってなんだ?

家出して下界に放り出されたころ、いろんな感情に苛まれた気がする。印象深いことしか覚えてないからこれしか言えないけど、両親への有難さは当時イチミリも感じなかった。代わりに途轍もない開放感があって、そして沼のような地面に自分を乗っ取られそうになってしまった。

ぼくは一体何者なんだろう

この感覚がずーっと自分を呪いのように張り付いていた。褒められるような立派な人間にならなきゃいけない、安定を求めて正社員になっていなければならない、結婚をしローンを組み家を買い家族を持たなければならない、他にもいろいろあったが自分にあったのは「自分が何者であるか」という問いの答えではなく、反復的に刷り込まれた当時の常識だった。その事実がとても恐ろしかった。

今でもそれは解決したわけではないし、数々の処方箋を投薬しながら生き延びているわけだけど、「自分が何者であるか」ということを疑念に思ってしまうそもそもについて考えるようになっていった。学生という自分、アルバイターという自分、社会人としての自分、男性としての自分、誰かの友人としての自分、誰かの恋人としての自分、誰かの子としての自分、それぞれ違う関わり方をしているはずなのに、どうして「自分が何者であるか」という事に取り憑かれているのだろうか。

「自分が何者であるか」というアイデンティティーはIDカードであり、その人を証明する社会的方法である。そうでありつつも、個人を縛る共同幻想でもある。周りのいろんなシステムは複雑になっていくが、残念ながら人間の見方や考え方、癖と言うものはものは数千年前からあまり変わっていないらしい

要は、だれかがこちら側のアイデンティティーを指図したがるようにぼくなんぞには見えてると言うことだ。ぼくはたぶんこういう空気感というか、不条理さに苦しめられたのかなあと思い出しながら書いている。誰は昔あれこれしたらしいとか、こいつはこんなことを言うやつだとか、この人はほかにこんなことをやってるみたいだとか、事実そういうものがあったとしてそれを言わずにいられない人たちは"今の"自分とは折が合わないなと感じている。ある種のエンターテイメントのような、いやもしかすると過剰な干渉のようなものをせざる得ないといのはいろんな人を自分の消費活動の一種に捉えているのかな、なんて思う。

 

自分の区切った世界で、世界を見ている

 大人になってから一番役に立った話は、人間は都合よく世界を解釈しているっていう話だった。現象というのは単一で、そこからいろんな世界観や知覚を通して各々の解釈がされる。当然、そうなってはいけない部分は法や文書が定めたりしているけど、日常という世界のなかではたいてい各々の解釈によって世界は構成されているというのはぼくにとって衝撃的だった(もしかしてみんなは知っていたんだろうか)。

そのあたりに関わる話としては市川浩(身分け構造)とか、丸山圭三郎(言分け構造)とか、そのあたり包括して話していた栗本慎一郎鉄の処女)とか井筒俊彦(意味の深みへ)とかがあった気がする。

 

       

 

色んな解釈が存在する世界で少なくとも自分が優しくあろうと思ったときには、そういういろんな形の人たち、いろんな側面をもった人たちに対して、包括的に関わっていきたい。欲を言うならば、よりもっと個々として付き合っていきたいなと思っている。

つい先日友達に、ぼくがどんな重罪を犯したところで嫌いにならないよという話を受けてその懐の広さに感激してしまった。ぼくは相手がどんな裏や、思想や、考え方を持っていたとしても、仮に知っていたとしても、目の前の良く知るその相手のことを受け入れていたい。

そんなことを思いながら、眠い目をこすって書いていた。

 

P.S. 余談だけどネットワークビジネスにハマって未だに勧誘してくる幼馴染のKくん。実害が及んでるのでやめてね。