辛い時しか良いものを書けない

先週半ばあたりから頭痛や鼻水が止まらなくなり、薬を飲むなどで多少マシになったものの、昨日再び酷くなったので病院に行くとインフルエンザ(A)との診断。世間は新型肺炎で大変みたいだけど、ぼくは世の流れとは反しながら勝手に病気にかかっている。

最近だと、職場の上司がインフルエンザ・マイコプラズマ扁桃炎にかかり2週間近くダウンしてたのもあり、そのお零れを貰ってしまった可能性がある。許さない。

 

冷汗が止まらず、身体の節々が痛いのでうまく寝付けない。だから暇すぎて、こういやってブログを書いているんだけど、自分がなにか書きたいことに直面して、そしてそれを書き切るときはいつも、身体的にせよ精神的にせよ、辛い時が多い印象がある。基本的に怠けて生きているので、普段は別に何も書きたくないし、動きたくない。

けれども、こうして一旦どこかを悪くすると、怠けているときには見たくなかったことがよく見えてくる。

こういう最低な状態のときは、自分を傷つけることに厭わない。生きている心地がしないので「生きてるんだなあ」と感じると、夢現から現実に引き戻されるようで嬉しくなってしまう。これは完全にメンヘラな思考なので、あまりよくはない。けれど、そうしたやり方でしか生きることを実感できない彼/女らがいるわけで、彼/女たちの気持ちはよくわかるような気がしている。そうした歪な形でしか、自分をはっきりと認められないことは、歪とは書いたものの可笑しなことではない。適当じゃないということだと思えるし、どうしようもないほど絶望的なのに、正面からまっすぐ考えている。ぼくなんかより余程「生きている」ことについて考えている。

ぼくはこういう気分の時、お酒やタバコくらいでしか自分を傷つけることはできないけれど、だんだん死んでいく感じが好い。このままぼんやりと消えてしまえばいいなと思える。以前からそうなのだけれど、言葉としては「死にたい」より「消えてしまいたい」という語感がしっくりくるようだ。

ああけれど、やっぱりまだ少しくらいは愛されてみたいなあ!

 

自分の感じることを書くのは、そうすることにより感覚の熱気を冷ますためだ

 

 

記憶を、綺麗な言葉で表現できるひとはいいなと思う。

SNSを眺めていれば、好きな表現にも出会うが、むしろ気持ち悪い表現や言葉のほうが多い。つねに誰かは誰かと戦っているし、そこでどうしようもない苦痛を抱えたりしている。あるいは、パフォーマンスのためか、あらゆる空虚な言葉を使い、誇張を重ね、自分の認知に近いところで理解を着地させていくような文章によく出会う。ぼくは影響を受けやすいから、そういうものにはあまり近寄らないようにしている。

たまに、すごくいい文章が外から降ってくる。ぼくはそこに居ないはずなのに、ぼくのイメージにその人たちの綺麗な記憶がやってくるようなときがある。そういうのを目にすると、どうしてか泣いてしまいそうになる。ただ言葉だけのはずだけれど、あたかも自分の記憶のような想起をさせられて、本当に困る。

 

誰かが思惑を持っていたり、下心があったり、関係の中に不純なものが混じっていることなんて日常茶飯事なんだろうけど、そんなものはあまり関心がない。ぼくの判断基準はずっと「目の前の相手が好きかどうか?」にしかない。何か別の目的をもって誰かに接したり、騙したりすることができない(結果的にそうなってしまって迷惑をかけることはある)

ビジネスでもそうで、誰かに気に入られるために意に沿わないことはやっていない。顧客でも、好きでないひとはいるし、そうしたひとには自分が担当でないほうがいいと伝える。ただそうはいっても避けられないこともあるから、そうしたときは相手の目的を一番早く達成できるように仕事する。もちろん、好きなひとであれば最後まで尽くしきろうとするし、多少の損失が出たとしてもこれからの付き合いで言えば大したものでないと思うこともできる。

まだ大して生きてきていないけれど、ずっとそうしてきた、というかそれしかできない。不器用だからよく騙されることもあるし、オープンすぎて不審がられることも多い。でもまあ、まだしばらくはこの調子だろうから仕方ないなぁ。

 

 

何かを書くために努力したことはあまりないような気がする。国語はずっと苦手だったし、本を読み始めたのなんて本当にここ数年の話。大した量を読んでるわけでもないからバックグラウンドが強固なわけでもない。外国語も少し独学したけど習得したとはとても言えるレベルではない。要は、本当に何もやっていないというふうに自分では思っている。

にもかかわらず、何かを書くことに対してあまり抵抗なく来ることが出来たのは、常に自己反省的だったからなのかなと、気づかされた。というのも、最近自分に対してそういう言葉を使ってもらうことがあって、あまり違和感がなかったから今はそういう風に感じている。

そうはいっても、何の特性もなしに居たわけでもなかっただろうから、何かを書くことに対しての自分の備わっていたものは何だろうと考えていた。

ぼくにとってそれは「感じたものを出来るだけそのまま言葉にしようとする体力(strength)」なんだと思う。技術ではなく体力としたのは、ぼくは技術や教養はまだ無いから。mental strengh and attitudeというものが備わっていれば、正直あとは調べたり、本を読む中で出会える。その出会ったときに「気付く」ことができるアンテナみたいなものも、なんだか自分にはあるようで。だから人と会って話していると、いつもいつも気づかされることばかり。

 

 インフルエンザの蔓延した寝床にて