途中下車の生活

決められた道から外れていくのが得意業、人生漂泊。

だれかに描いてもらった道を辿れたことはない、じぶんで描いた道も実はあんまり辿れていない。可笑しなことを言っているのかもしれない。

 

年末、突然静岡へ行こうと思った。

ぼくが何か思い立つときは、今日か明日のイベントが多い。予定を立てられない病を患っているのでこれはもう治せない。

レンタカーを借り、SONYのスピーカー(hear go 2)を持ち、お金をおろし、エナジードリンクを持てば準備ができた。久しぶりの運転だけど、タクシードライバーより運転時間が長かったからきっと大丈夫。

新東名に乗り速度制限を確認するが、まだ100キロまでらしい。最近、新東名の御殿場 - 浜松間は120キロまで出せるようになったからいずれは140キロまで出せるようになるのかなと想いを馳せた。ナビを見ると目的地までは1時間半くらい、超余裕。

 

神奈川の最西部を超えると静岡県に入った。だんだんと富士山が見えてくる。

またしばらく走っていると御殿場アウトレットが見え、降り口にたどり着くことができた。目的のない突発的なイベントだったから、どこかで美味しいものを食べてお酒を飲んで、ゆっくりしたあと温泉に入って帰ろうと思っていた。けれど、午前中は曇っていた天気が段々と晴れ目を見せてくれるようになると、綺麗な富士山が見えたときには標高の高いところに車を走らせている自分がいた。

そこでも綺麗だったけれど、もっと眺めのいい場所を求めていると山梨の河口湖にいた。湖を挟んだ向こうに見える富士山は圧巻で、大人になっているのにひとり気分が上がっていた。そしてまだ昼間なのを確認し、富士山の4合目まで行ってしまった。空気は冷え切っていて服装を間違えたけど、冷え切った中で心は澄んでいた。

 

これまで、思い立つままに動いて生き延びてしまった。大きな目で見てもそうだし、さっきみたいな細かなイベントでも同じ様相があらわれる。ちょっと形が違えば今ごろ死んでしまっていたかもしれないと振り返ることもあるし、あんなことするんじゃなかったと後悔することも沢山ある。誰かに、自分にやめとけと言われることもあるが忘れたようにまたやってしまう。

親に言われた学歴は断り、無一文で家出し、突然就職をし、仕事で人間性を捧げ、また難しい時期に転職をし、ライフイベントでも何かと一貫性なくふらふらとしている。これから新たな道を見つけても性懲りもなく道半ばでドロップアウトし、別な道を見つけてしまうのは、自分がいつまでも「異邦人」であろうとする道すがらなんだろう、きっと。

 

「生活」はずっと詰んでいると思っていた。

それは自分だけの世界なんだと信じ切っていた。けれど、その裏には誰かの生活があって、あるいはいつの間にか自分を気にかけてくれる知人もいて、子どもだからという言い訳に隠れて見ないふりをしてきたものに救われていた。もちろん、逆にいま自分が気にかけている人にとっても自分がそういうものになっているのかもしれない。

ぼくは恐らく運が良い。大当たりはしないけど、大外れを引くことはない。それはぼくの生活を囲む、また異なる生活を持つ人たちによってたまたま成り立っている。これからも、きっとそこは変わらないだろう。

 

意外と人生は詰んだりしないらしい。

だからぼくは、途中下車した人、してしまった人が困ったときに「たまたま」遊びに行ける相手で居られるように今年も異邦な者でありたい。