「三十歳までになんか死ぬな」と思っていた

物を書くことは生み出すことであるけれど、うっかり楽になってしまうと言葉が出なくなってしまう。何かを生み出すということは、一定の苦しさの中でしかあり得ないような気さえする。幸せになると言葉が不要になる、一定の強度でちょっと不幸くらいになっておかないと、ぼくは文章を書けなくなってしまう気がする。

20歳くらいの頃から、30歳で死のうと思っていた。

理由ははっきりとしていなかったけど、30歳以上の自分が生きているような気がしなかった。環境のこととか、両親のこととか、自己否定的なところとか、そういうのがずっとずっと重なってか、30歳以降の自分を描くことができなかった。
昔、将来設計をしましょうと言われて30歳以降のプランを書けなかった。周りのひとたちは時間をかけてプランを練って、30歳以降の自分たちに疑念もなかった。それが不思議で、周りの当たり前に自分がついていくことが出来なかった。
ぼくの周りで飄々と30代を迎えた人もいれば、苦しみながら、取り残されながら迎えざるを得なかった人もいた。

20歳のころから20代のころは手が届いた、出来そうだった。
けれどそれ以上なんて途方もなくて、日本の平均寿命が伸びていくほどに苦しかった。もっと早くみんなが死んでくれれば、平均寿命が30歳になればこんなに苦しまなくて済むのだろうかと、勝手に呪って、勝手に恨んだ。みんなが長生きすることで、見えない未来を考えなきゃならなくなって、それがみんなに当たり前になっていることがぼくには耐え難くて。途方もない数字がぼくを蝕んでいた。

もう7年も近く、ずっと自分が30歳で死ぬと思ってきた。
そういう風に考えて、いつ死んでもいいように心も、身体も対応してきた。けれど、親しい人が増えるほどに、なんとなく死ぬのが申し訳なくて、みんなの記憶から自分がいなくなればいいのにと思うようになった。このあたりで、死にたいという言葉より、消えたいという言葉が肌に合うようになった。消えたいという気持ちと、ぼくの願いとは逆に一部の人たちに受け入れられていくという生活は、とても苦しいものだった。
生きることが苦しいから、たくさん働いて、仕事だけに没頭できるようにした。

どんどん自分の気持ちが吐き出せなくなり、文章を書くことが増えた。目に触れる文章も、触れられない文章も、とにかく文章を書いていた。多産ではなかったけれど、嘘ではなく、綺麗なものでもなく、周りの目を気にせず自分の本心をなるべくそのまま言葉に置き換えるようになった。そうして出来上がったのがブログだったり、noteだったりする。ずっと、その中でも自分の終わりを考え続けていた。

 

最近、そんな呪いが解けてきた。30歳以降も生きていてもいいと思えるようになった。

おれにとっては受け入れがたい話なのに、それをすっと受け入れることができた。生活とか、人生とか、大きな主語は苦手だ。でも、そういうものは結局自分自身だけのもので、けれどどこかで他人と融和してちょっと救われたり、ちょっと道を踏み外したりする。ひとりばかりでいると、自我が大きくなって、人の言っていることが飲めなくなってくるひとが多かったけれど、ぼくは少し素直だったのか、勝手に感化されたり、触発されたりする感覚はずっと残ってくれていた。

そういう変化もありつつ、精神的に大きな支えを得ることができた。偉そうに一匹狼のふりをしていても、支えがなければ簡単に崩れてしまう。ひとりで生きてきたってのは嘘だ、必ずどこかで助けられている。それを無視し、あたかも自分ひとりのように宣うことはぼくには難しい。
精神的に支えられて、人間っぽさも取り戻して、やっと自分に苦しんだりできるようになってきた。ひとりばかりだと、苦しみながら進むしかなかった。いまも、そんな風に進まざるを得ない人たちのことを考えてしまう。

30歳以降の自分を肯定することは、たぶんひとりでは無理だった。精神的な支柱を得て、自分に対する肯定の反動を受けつつも言葉が馴染み、やっと今になる。人生が最高だとか、幸せだとか、簡単な言葉に収斂させたくはない。けれど、この7年間の呪いが解け、7年分の苦痛が気化し、今どうしていいかわからない。それまでの感情だったものを持て余している。

沢山遊びたい、いろんなところに行きたい、これまで足かせだったものを外して学んでみたい。子供のような感情だけど、ぼくにとっては今まであまり感じることができなかったものに感じる。

普通の人間に戻ったみたいだ、良いことなのか、良くないことなのかはまだわからない。多分これからも、支えられながら生きていくんだろう。

 

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