人間の価値なんて信じていない

能力/生産性/価値について

半ば、自分のように日本の学歴と中途から転げ落ちた人間にはわかりかねるのだけど、今でも学歴至上主義的な考え方は根深い。当然、専門家してゆく職業のなかで学歴というフィルターをかけたほうが良いというのは理解できる。ただ、ひとつのアンダーグラウンドで中卒・高卒関係なく仕事を成してきた自分からしてみると、そのよなフィルターがかかる一つの要素に人材教育への投資が無いという側面が見える。優れた才能などではなく、物覚えの良し悪しや、それまでの生活基盤上の手際の良さなどから見て、作業を遂行する時間の違いなどはある。だが、教え、リードしていけばいずれ出来るようになる事にも拘わらず、それを「手間暇」などと言って負のイメージと連関させるような人間は、ぼくにとっては敵である。それは自分が社会に出るようになったとき、何も持っていなかった、自己否定への拒絶という意味もあるかもしれない。
だからぼくは人材への投資は、いわば労働に於いてのインフラだと考えている。個々人にモラルが問われるようになり、企業の採用面接前にSNS監査があったり、就職後もSNSの利用は更に監視の目が置かれる。それにより更にSNSの匿名性は上がり、匿名性から発される強い言葉・差別的な発想は多くの人を傷つける可能性がある。最終的に、SNS上の自我を会社の損益としてコスト化しなければいけなくなる時点で、人材投資はその段階において失敗しているのだろう。

働き始めてから、あるいはインターネットでSNSを使い始めてから、いったいどれだけの「自分に価値がない」という言葉を目にしてきただろうか。直接的な言葉でなくとも、さまざまな表現によって目の当たりにしてきた。とはいえ、ぼく自身も自分に価値があるかと思っているかというとそんなことはない、だが価値というのは局所的な文脈でしか役に立たず、にもかかわらずぼくたちを苦しめる言葉である。

およそ、近年の価値というのは生産性やアウトプットなどの言葉にリンクされているのだろう。いかに短い時間で成果を出すか、というにてぼくも価値という言葉を使う。ただ、もっと広義な「人間として」というレイヤーで利用されることも多い。
これを善としている人たちは、労働こそが人間を形作ると考えていて、納税額を偉さと捉えている傾向があって、なにより生きることに抵抗が無いとぼくは見ている。サンプル数は十数名だが、発想の土台が違うなあと感じている。

生産性などは確かに資本主義下、あらゆるモノや経験がたいていお金で買える世界では一つKPIとして重要なのかもしれない。だがその世界においても、福利厚生はあり、福祉がある。当たり前だが、人は自分の視界に無いものは経験することができない。経験がないという事は、そこに注意を払うことも出来ないし、思考することもできないということになる。ぼくはいろんな言葉に虐げられた…という感覚が少し濃いほうだから、あまり強い言葉を使いたくない。文章を書く上で面白いのは断定することだと分かっていながら、なかなかそれに踏ん切りがつかない文章ばかり書く。これは辛うじて残る自分のやさしさなのかもしれない。

自己否定的な感情は、当人は「私/僕は」という主語で考えていても、述語は主語に追随する。そしてその感情は、可能性の形として「あなた/誰か」へ矛先が向く。例えば、この仕事ができない自分はなんて無価値なんだ…という発想があったとして、それは果たして自分にしか向かな言葉なのだろうか?と考える。
ぼくはセールス畑の人間であるが、営業売上で圧倒的に自分よりも上の人間が「売上出てなくて本当に価値が無い」などと言い始めたら暫く具合を悪くするだろう。セールスの例えであれば所属企業や商品によってケースバイケースであることは当然理解していても、売上が属人的な価値に換算されてしまう時点で闇の深い話である。

何かが出来る/出来ないというのは、環境や職場によって全く異なる。おれはケアレスミスを10年近く繰り返しているが一向に学ばずセルフチェックの回数を増やして多少回数が減ってきたという程度、片付けに関しては今後を諦めるレベルで物が無くなる、そうでなくともここ3年くらいで4回ほど財布を落としている。だが、検収書などでもほぼミスなく出来る人や、細かいデータ作業を平気で出来る人、片付けが素晴らしく出来る人は、「ぼくには出来ないことが出来る」という風に見えている。ただしそれによってぼく自身の価値がどうこう、などはない。その人が活かせる場所と環境があり、ぼくにとってもそうであるように、そのような配置関係の差異を人材教育への投資などもせずに「人間の価値は…」などと宣う人がいるならば、ぼくは強烈に批判する。そのコンテクストに限定して言えば、その主張をする人間がもっとも無能なのだ(こんな話を書きながら泣きそうになる)。

その分野において自分が不出来なことを、自分は…人間は…などの主語で考えてしまわないで欲しい。それが鋭利であればあるほど、自分が思ってもいない人への言葉にすり替わり得る。ただし、ぼく自身の立場としては、生きるも死ぬも選択の一つであり、自殺を選んだからといってそれを否定したくはない(少なくとも現段階の考えとして)。

「今を当たり前だと思うな」なんていう言葉は胡散臭くて聞く気にもなれないけど、やっぱり今が最期だなという感情はつねにある。自分と関わってくれるひとが本当に有難くて、仮にいま死んでもそれほど悔いは残らない(さすがにこのブログは書ききりたいとか、注文してる商品は届いてほしいとか、次の土曜はゲームしたいとか、少しずつそういう感情はある)。

その人のどこが良いのか、という質問があまり好きではないのはそういった理由でもある。それを答えることが、その人の、あるいは自分のプレッシャーになってしまいそうになる。具体的であればあるほどぼくには危険に思えてしまう、「替えが効く」なんて本当に言わないで欲しい、決してパーツなどではないのだ。
もちろん、厳格にルール化していないから押し引き/駆け引きのなかで話をすることはあっても、自分にとっては軽い話でも相手がそう受け取ってないなんてよくある事だろう。だから、二人称(ぼく/あなた)においては必要な場面はあれど、具体的になりすぎないように気を付けている。それを属人的な価値だなんて受け取ってない、あなた自身であることをいつも受け取っている。知らないことも沢山ある、伝えられてないことも沢山ある、そうだったとしてもぼくが良いと思った相手に、そのように伝えることを憚らないでおこうと思うばかりだ。信じてもらえなくとも、それを伝え続けることに意義があるんじゃないだろうか。

参考:「その日暮らし」の人類学 小川さやか | 光文社新書 | 光文社