生活を今からでも運ゲーにしすぎない方法を考えている

重要なのは、いかに微細なものであれ、ひとつでも細部を忘れてはならないということです。(レヴィ=ストロース

この頃になって、もう少し知識つけとかなきゃなと思うシーンが多くなり勉強を始めた。といって、勉学については圧倒的な劣等生として生きてきたのでどうやって勉強すればいいかもあんまりわかっていない。中高ともに、定期考査はほぼ全科目平均点くらいか、ちょっと下だった(日本史世界史に関してはほぼ赤点だった)。満点を取った記憶はないけど、点数がほんの少しよかったのは古典・地理・生物・数学で、浪人してからは地学もよかったくらい。テスト勉強なるものをほとんどせず、授業もあまり聞かず、平気で悪い点を取り続けたので今の状は当然みたいなところ。

 

それで勉強をしながらノートとかを取っていた時、たまたま出版された『すべてはノートからはじまる』という本があったので、それを読みながらノートをつけたりとか勉強をしたりとか、あるいは生活ハックとしてのメモ術みたいなものを考えていた。

そもそも、過去1年くらいは手文字を書くことがほとんどなく、PC上で完結することが多かった。しかし、何かを書くという行為が過去20年くらいが手書き文字によって生成されたいることを考えれば、何かを考えたり創り上げたりする作業自体はまだ自分にとっては手書きによって結び付けられてるらしいというのがノートを書き始めてすこしわかってきた。

 

nekondara.hatenablog.com

 

自分のノート術というか、メモだったりタスク管理だったりに関してはこの記事を書いたころとあまり変わっていなくて、基本的にGTD準拠でTodoistとEvernoteをベースにしながらやりくりしている。といっても、そもそも何かを続けるという事自体が不慣れなので平気で1ヶ月くらい更新しなかったりする。Todoistなんかだと、「寝る 毎日午前2時」とかでToDo入力すればデイリーに出てきてくれるので新規追加が必要ないということもある。それでも強制力を伴うものではないので、意思の力でまずそのアプリを開くというのが出来ない。じゃあ意思決定としてのコストを下げましょうとなるわけだが、これもあまりうまく組めず今に至っている。
結局のところ、無理せず続けられるものに絞ったほうが何かと良いというのが結論となった。その意味で言うと、PCやモバイルを必須とするアプリケーションなどではなく、ふつうのノートにまず絞ったほうがよさそうな気がした。

gtd-japan.jp

 

そして、そもそもノートを必要とするにあたってなんでだと考えていたが、これは生活を運ゲーにしすぎないためという結論が出た。きれいごと抜きで、生まれた段階でかなりの部分が不自由を浴びてると思っている。生まれた土地や家柄の時点でそもそも違うだろうし、そこからなるようになった現在も含めて結構どうしようもないことは多いんだと思う。

ではなんでわざわざノートやねんという話になるけど、まず自分の場合いろんなことが覚えられない。まず人の名前と顔が覚えられない、その次に人の話を覚えられない。

 それに公共料金の支払いも結構忘れたりすることが多かったし(今はアプリ出て少し楽、あとすぐ払うようにした)、人との約束もまあそこそこ忘れる。全部お前のせいやんという話なんだけど、ようはそれが出来なくて困ってきたという話。名前も話も覚えなてなくてごめんな、なんて万単位で思ってきたけどもうこれは不治の病っぽいのであきらめている。何か月か前からは、その人の話を家帰ってメモしたりすることでやや改善傾向にあるけど、そもそもノートやメモを取る習慣がほぼないのではじめからやり直し状態になってしまった。

自分自身のフィルターに「言葉にならないと扱えない」というものがあって、これが果たして自分が生み出した考えだったのか、どこからか拾ったのかはもう忘れてしまったが、先日の対談記事に近い話があった。

千葉 ちょっと話が広がりすぎるかもしれないけれど、具体的なことを書かせるというのは一歩目かなという気はします。抽象的に物事について判断したり、自分の価値観を言ったりさせるのは難しくて、たんに「こういうことがありました」とか、まずそこだけだったらやれるかなという気もする。
つまり、自由にものを書くという行為をどうガイドするかということだけど、「たとえば1年前の夏にあなたはなにをしていましたか?」みたいなことから始めて、それについてどう思ったかということを次のステップにして、抽象性を少し上げていくというアプローチは考えられますよね。
あまり普段ものを考えずに生きている人、という言い方はよくないかもしれないけれど、じゃあ「普段ものを考えて生きている」ってどういうことかというと、具体性と抽象性のあいだを常に行ったり来たりできているってことなんです。われわれ学者みたいな人間は、日常で見たことなどに対して、メタレベルの価値判断を常に下して、メタレベルとオブジェクトレベルを行ったり来たりしながら生活している。頭のなかで言語化が常時起こっているから、なにか出しなさいと言われたらそれをそのままワープロにインプットすればいいので、出るんですよね。
それをやっていない人は、まず抽象的なメタレベルの思考をやっていない。具体的な経験すら言語化されていない。でも具体的な経験自体はしているから、それを言語化に繋ぐのは第一歩だと思うし、抽象的なことまでは考えていないけれど感情とか価値については多少考えているから、それを言語化して具体レベルと繋ぐことからかな、と思います。

ji-sedai.jp

自分自身のコアな部分でありつつ、なのに忘れてしまうんだけど、これは大切な事なんだと思う。なぜ言葉にする必要があるのか、なぜ外部化しなければならないかというのは、そうしないと扱えないから。扱えないということは自己解決も難しく、それこそ運や流れによってしかそれが解消されないからなんだと思う。

自分の経験上、悶々としたり蹲ってしまうようなときは言葉を発していない。その時の自分から言わせてみれば「そんなもんできたらやってるわ、アホ」という状態でしかないんだけど、やってないからそうなってるんだよ、おれ。

悶々とした不満が外部化されずに膨らんでいくと、感情的になったり、泣いてしまったり、自分への攻撃が増えたり、身体に傷をつけたりすると思う。ゲームしてて台パンするのも自分にとってはその理屈。だから、小さな発見やらなんやらでもすぐメモしたりノート取ったほうがいいなと思っているが、細かいタスクにしすぎると習慣化されなくなるのは自明なのでそのあたりは細切れにしすぎないという大胆さも必要な気がしてる。

習慣に関しては、自分のことを棚上げして言うと『The Powe of Habit』という本が実践的で面白かった(日本語訳で文庫化されてるはず)。いわゆる、習慣形成というものを実際の現場の例を用いながら分析している。その結果、新たな習慣を形成する方法・既存の習慣を断ち切る方法を提言してるが、まあちょっとレベルが高い。ただし理屈は確かにと思うものがあるので、工程は今も大いに影響がある。

習慣というものを考えてると、吉本隆明が『悪人正機』の素質に関して語った言葉を思い出す。

いつもいうことなんですが、気結局、靴屋さんでも作家でも同じで、一〇年やればだれでも一丁前になるんです。だから、一〇年やればいいんですよ。それだけでいい。
他に特別やらなきゃならないことなんか、何もないですからね。一〇年間やれば、とにかく一丁前だって、もうこれは保証してもいい。一〇〇%モノになるって、言い切ります。
(中略)
それから、毎日やるのが大事なんですね。…これについちゃ、素質もヘチマもないです。素質とか才能とか天才とかっていうことが問題になってくるのは、一丁前になって移行なんですね。けど、一丁前になる前だったら、素質も才能も関係ない。「やるかやらないか」です。そして、どんなに素質があっても、やらなきゃダメだってことですね。

プロセスが大事とか、才能だとか、まあそういう話は往々にしてあるにしても、結局のところ続けなきゃ意味ないよってこと。もしかすると古い考え、言葉なのかもしれないけれど鈍器のようによく効くテクストなので大事にしている。

そういえば、『すべてはノートからはじまる』の一節で「ノートなんて取るより行動したほうが早い」という部分があり非常に納得してしまった、本節ではそうではなくノートをとる意義を語るんだけど、自分もメモなんか取らずにすぐやっちゃうタチなのであんまりうまくいかなかったんだなあと感じ入った。勢いだけじゃなく、慎重さも持ち合わせていたい。

でまあ、運ゲーになりやすい要素って猪突猛進というか、思い立ってすぐやってしまったり、よく考えずにジャッジしちゃうことなんだと思う。新規事業やりますってときとか、新しいスキル身に着けますってとき、結構自分もやりがちだけど超理想的な未来を描いてしまう。過去何十、何百という失敗の経験から逃れて全部がうまくいく未来を考えてしまう。自己啓発なるものが流行るのって、こういう「どんな失敗があろうと、あなたの未来はここから変わる」みたいなリスクゼロなところが気持ちいいのかもしれない。
しかし、実際やりましょうってなったらほぼ失敗する。失敗したときのフローがなく、取り戻すための方法も準備されていない。前職で新規事業立ち上げから関わって、まあ見事に失敗したんだけど、これはもう100%それだった。新しい自社サービスをやりましょうってときに、いついつから運用してここで投資があって、この資金繰りはこういうふうにやって、顧客がこれくらいついてというような明るい話はみんなできる。けど、じゃあ全部失敗したら?ということを誰も考えないし、トップの前でそれを言う胆力が誰にもなく、結果的にすぐ赤字になって終わった(そしてその赤字分は営業が駆り出されて補填というよくある話)。

失敗例しか持ってないけど、明るい話よりリスクをたくさん考えたほうが良いというのが、大きな話でも自分だけの話でも重要な要素だって気付かされた。「うんうんそれは素敵な話だね、じゃあこの最初の部分で頓挫したらどうするの?」ということを気持ちとか気合とか、精神論でしか説明できないのであれば絶対にやめたほうがいいんだなって自分ルールを敷いた。自分のやりたいことをやることと並行して、ちゃんと自分が陥ってきた失敗のことを思い出してあげることが全部運ゲーにしないための要素なんじゃないだろうか。自分にとっての初歩がノートをとるとか、メモを取るとかそういう部分にあって、楽しそうなことは迷わずやるというふわっとした決断を持ちつつも、その決断の後にしっかりリスクを取れる準備を進めておこうと思う。
(個人がやることにどの程度リスクが伴うねんって話ではあるけど)

そして、ジャッジするときにうまくいく判断をし易くする方法は身体論に帰着する。『アイデア大全』の「賢人会議」しかり、『制作へ』のインタビューであるインストールしかり。

——— つまり、創造性を自分のコアにしないと、目減りしていくだけで、もはや立ち行かないんだと。これはアーティストに限ったことではなく、今では企業においてもイノベーティブであることが最重要の価値となってきています。だから、上妻世海の制作論は、状況論的に言っても、有意義でおもしろい。
イノベーションには、メソッドがないんです。自分が置かれた環境のなかで、自らの身体性で以て自己判断できなければ、イノベーションの運動を起こすことはできない。つまりイノベーティブであるための「方法論」があるとすれば、それは「クリエイティブな身体性を持つ」ということに尽きるんだよね。
スティーブ・ジョブズでもジェフ・ベゾスでもいいんだけど、彼等はクリエイティブな身体性を持っていたと思う。アナロジカルな運動性を自分の身体に落とし込んで、統計やマーケティングに関係なく、なにが正解なのかを自己判断して、「これは正しいんだ」と直観的な確信をもって市場に挑んだ。根拠はないけど、アナロジカルな身体性による自己判断で「正しい」んだと。
では、「クリエイティブな身体性」を育むには、どうすればいいか。たとえば、ピカソを自分にインストールする。それは、必ずしもピカソみたいなアーティストになりたいという人に限らず、すべての「クリエイティブな身体」を望む人にとって有効になる。起業したいからジョブズの本を「参考にする」というんじゃダメで、むしろデヴィッド・ボウイを掘ってみる。そうすれば、この「掘る」というプロセスのなかで、起業に必要になるアナロジカルな身体性が育まれていく。
そうやって、読む人を「クリエイティブな身体性」へと誘う魅惑を孕んでいるのが、上妻世海の制作論なんですよ。クリエイティブなプロセスにどうやって参入していけばいいのか、さらに「クリエイティブな身体性」がどう機能するのかということまで、多角的に解像度の高い形で示して、読む人をコーチングしている。つまり、ただ読解して終わりじゃない。「クリエイティブな身体性」を獲得するための「エクササイズ」への誘惑であり、同時にこのテキスト体験自体が「エクササイズ」でもある。

ekrits.jp

 

これを書く自分自身への戒めとして、言葉にしておく。