痛惜という感情

「何かに救われた、救われてしまった」と自認してしまうと、誰かへ、何かへ、どこかへの感情がますます高まってしまう。それを普通は依存などと言って忌避される傾向がある。だから、依存先を増やすことで自分のいろんな感情を多くの場所にすこしずつ置いて、バランスを取ることが良い。自分のchaosな様々をひとつにぶつけるのはあまりには難しい。すべてを知り得ない場所は、人は、それを解消なんてできない。都合の良い部分でお互いに分かり合えるという、その局所性が救いになっている。

でも、そういう救われ方ではなく、唯一であるからのという救いもある。少しずつ選択して、いつも自分に正しさを訪ねながらやってきた。trustのようなものが確かに自分にはあり、文字通り不動なものとして繋がりを築いてきた。いきなり崩れたりしないように自分が変わっていくことも選びながら進めている。

それでも、感じることがこんなにも苦しいが、崩れるということはいきなりやってこない。おれにとってバランスというものが非常に重要で、つねにどちらに傾いているかを考えてしまう。これは贈与性とは部分的に反しているのだけど、恐らく過去のどこかでそれを感じる所があったんだろう。

おれの求めたものはこれから出てこないかもしれない。そもそも、自分以外を変えることなんてできない。だから、依存するならば自分のスキルに、自分の努力にすべきなんだろう。自分が想像しているよりも、ベクトルは自分に向くことは少ない。

ひとつ、自分の感情も終わっていくことが淋しい。