どうしようもなさと、不器用さと

なんとクリスマスイブデートを敢行してきた。ぼくにとっても不思議な体験だったが、何よりぼくのブログやらTwitterで事前情報を知られているというのが奇妙な体験だった。口に出していないことなのに、知られているのは恐ろしいものだ。

 

この頃怠けていたので「人生楽勝!」とか思っていたが、それは楽勝なのではなく今そこにある問題に対してのアプローチでしかなかった。

おそらく、ぼくが知る限りの人たちは、知覚され得ないことを体感することはできない。言葉の発生から遡及して原体験が起こり、身体的に理解する。要は、思ってなくても言われたら一つそれが頭に残ってしまう。

 

そうした中で、しかしながら、言葉には境界がある。言語と存在では、ぼくの場合はまだ、存在のほうがよっぽど影響力がある。

ある人に会おうとしたとき、会う前にはあんなことやこんなこと、そうだこれも聞こうと考えるとする。しかしいざ会うと、そんなものはどうでも良くなってしまう。あれほど言葉にして考え尽くしたのにもかかわらず、その相手の存在によって覆われる。そういうものなのかもしれない、だからいつまでも新しく、刹那的だけど、いつも違う。憑依し続けている人ならば尚のこと。

 

言葉で救われることもある、けれど救われないこともある。ただ、そこに居てくれるだけで救われることもある。そのときに言葉は無意味で、触れられるという安心感が、赤子のように必要なこともある。そういうどうしようもなさを抱えたもの同士が、いつの間にか同じ時間を過ごしてしまうのかもしれない。