どこでもいいから両極端に振れておくこと

4日間ほとんど引きこもって、いろいろ思い詰めているといろんな気づきがより鮮明に浮き上がってくる。ここ数日は、転職についていろいろ考えていた。結局じぶんの乗っかりの弱さゆえなのだけど、いまの職場がそろそろキツイ。かといって、今大したスキルも持っていない、だとすればキャリア転職なんて今考えるべきじゃない、どうしよう、と。やり方はわかっていたとしても、ただそれをやっていないだけなのだけれど。

 

【どこでもいいから両極端に振れておくこと】

どこでもいいから飛び込んでみる、ということは大事だと思う。もちろん感覚的であって、確証が得られるほどに何かをしているというものでもない。少しずつわかってきているのは「問題の解き方」と「道の歩き方」は別物だというものだった。

正解と不正解があるらしい、ぼくにはわからないけれど。人生や道の歩き方にも、どうやら正解があるらしいということを言われる。それを信じながらやっていたけれど、やっぱり違う。でも、一度は騙されて、ちょっとうまくいって「自分は成功者なのでは?」という気分を味わっておくのもそんなに悪くない。ぼくも2日くらい味わった。

その二日天下のあと、いつものように堕落したのだけど、ぼくは多少自分のやりようでその二日天下の状態に自分をこなすことができるようになった(もちろんその精神状態は伴わないけれど)。つまり、ぼくはフィジカルは手に入れたけど、スタイルは手に入れてないということだ。二十年程度で自分の「らしさ」に気づくことが出来るなんて、まったく思ってないけれど、こうした在り方には気をつけていけるようになった。

例えば表裏のある状態があったとして、自分はその表面しか知らないとする。その表面だけが知覚される世界で、それ以上のことは何もないとする。そのオープンフィールドだけで生活をしていると、身体が固まってくる。固まってくると、身動きが取りづらくなってくる。裏面への身体的な知覚を放ってやると、身体は全く別の動きを要請されるようになる。自己同一性などクソ喰らえ並みの。そして身体は裏面に適応し始める、そこで個体は以前居た表と今の場所の連関を見做すようになってくる、そうすると表裏ではなく「その場所」として身を振りかざすことが出来、またいつでもそう在れるようになってくる。

この感覚を、どこであれ、大切にしたい。

「わからないとやれない」から「わからなくてもやる」という方向へ。自分が中心に居るのではなく、その他の動きに合わせて自分をこなしていくこと。けれど、それはなんだかんだ、まずは自分がどこかに振り切れておかないと、なかなかできるようにはならないものだと、ぼくは思う。