主観と客観と、ぼく自身と

18/31

 

たまに煙草を吸うといい気分になる気がする。ぼくはほとんど吸わないのだけど、お酒の入る席とか、周りの状況で吸ったら吸わなかったりする。そもそも煙草に対して飽きを感じてしまう性質で、突発的に吸いたくなって2ヶ月くらいほぼ毎日吸う(吸うときはPeaceしか吸わない)、そして突然半年とか一年間吸わなくなる。

煙草を吸うキッカケになったのは、東京に来てから付き合った彼女の影響だと思う。それにしても、ぼくはすごく人に影響を受けやすい。その人がハマっているものや、好きなものは、とりあえず買ったり、試したり、話したりする。だから、ぼく自身の志向性によって得られたものはほとんどないんじゃないだろうか、ぼくはみんなで出来ている。

 

【主観と客観と】

自分がいま主観的なのか、客観的なのかわからなくなる時がある。自分の感情が揺れるのが心地よくない、喜怒哀楽を感じるとすぐにそれをメタ的に見ていこうとする。やりたいこととか、熱量を持ってやれることは多分主観的なものだと思う。そこに自分を持っていくことができない。

ところで、昔から不思議なのは

「客観的に見て、自分はAだ」

という構文があったとき、それは主観なのか客観なのかわからない。たぶん話者の感覚的には、自分という要素の何点かを外側に出してしまって、その要素を定量的に観測したという状態なのだろうけど、ぼくたちが自分に対して純度100%の客観を持つことができない以上、この立場は何処に担保されているんだろう、と思う。

そうしたときに、西田幾多郎の「善の研究」を読んだ。もう少し小さいときに読んでいたら、また違った悩み方ができたんだろうか。

純粋経験というキーワードは、未分化、絶対無分節、ただそこに在る…というふうに、ようやく最近になって、これまで読んできた本に繋がってきた。昔のぼくは、現象そのものに既に言葉や、主観客観があると信じていた。そして、それを言葉によって説明できるものだと信じていた。

最初書いたことに、ぼくは喜怒哀楽を感じるとすぐにメタ的に見ようとすると言ったけれど、これはつまり、ぼく自身が既に在る物の中でしか見る事が出来ていないんだと思う。「本当」のところで自分を動かす事がない、だからなるべく自然に近づこうと思うようになったのはつい数日前のこと。

 

剥き出しの自分には、場所と、時間が必要になる。多くの「表現」が、大衆的な場から生まれないのは、そういう理由なのかもしれない。