なんやかんやで最終的には自分次第

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よく環境のことを恨めしく思っていた。親や、学校や、才のなさなど取り上げればきりがない。それを恨みつらみ言ったところで、たいして気持ちが良くなるわけでもなく、現状が変わるわけでもなかった。ただ逃避としての周囲への八つ当たり。

ひとは、誰かが助けてくれるわけではない(ぼくは大いに助けられたけど)。なんだかんだ、行動を起こすのは自分であるし、起こさなければ現状維持から衰弱へゆく。個人の問題を誰かの責任問題にするのはいいかもしれない、けれどそれで自分が救われるわけではない。自分は、自分で動いて助かるしかない。

悲観的になると、虚無的になる。虚無に陥ると、無気力になり、自分の行動がすべて無意味に思える。誰かが自分を必要としてくれるわけでなく、そういう意味ではとあるピースとして存在しているぼくらは、そうした環境をサバイブしていかなければならない。

やるべきことがわからないというのは調査不足で、調査すれば問題点が多すぎてやる気にならないのも自分次第で、できない言い分に誰かを巻き込む必要はなくて、何か明らかそうな場所へ向かって、何が必要かを見つけ、手に入れながら成果を生み出していくしかやり方がない。

自分の感情も、背景も、そこには関係ない。ただやること。