もの書きの苦悶

問題は不出来な文章をきちんと書き直すことではなく、あらゆる種類の抑制が事物の流れを遮らなかったら、最初から自分が言っていたはずのことを見つけることなのです。

 表現にはおそらくいろんな方法があるが、自分は文章を書くことしかできない。多芸でもないが、かといって一芸に秀でているというわけでもない。そういう凡人としても、書くこと、あるいは生み出すことは苦しい。

自分にとってのモチベーションとは、呪いのように、あるいは蟠りのようにこびり付く気持ちの悪さを文章を書くことでしか言い表せないという点に尽きる。考えても、書いても手に取れたような気にはなれず、ますます泥沼に陥っていく。他人の書いた美辞麗句は時より自分が求めていた表現であるようにも感じてしまうが、少し時間を空けてしまえばやはり自分のものでなかったと嘆くばかり。けれど藻掻く中途で、稀に劇薬のような表現に出会うことがある。その表現は、一度しか読まずとも脳裏にこびり付き、出典が思い出されないながらに自分の中に宿り続ける。

かれこれ2500年以上文章というものが世に出され、翻訳され、言い直され、人間の持つおよその苦しみは大方処方まで可能な状態であるにもかかわらず、相変わらず苦しむ人はおり、娯楽として文章を読む人もい続ける。そう、結論を言ってしまえば自分の言葉で言い直されない表現というのは、己れを救わない。文学が人を救うか否かは知らないが、救われるならば自分の繰り言を鈍器のように形付けていかなくてはならない。鋭利な表現というのは切れ味ゆえ、響きを薄れさせる。だが死ぬまでは生きなくてはならない今、求められるのは鋭利さではなく鈍さなのだろう。取れない滑りのように、二度と元に戻らない痣のように、傷をつけなくてはならない。忘れ去られない痛みこそ、その人間ができる表現の基幹となり、花を咲かせる。

自己の救済のためには、苦しみを表現しなくてはならない。そして解決は創作ではない。苦しみが長く、そして深いほどに表現者と言うのは鈍色に染まる。簡単に結論付けてはならない、地に足を付けよ、しかし飛ぶときにはしっかりと飛ぶのだ。歴史によって自分を成立させず、認識される自分が居る限りにおいて自分によって成り立たせる。