自分であることとか、「あいだ」を跨いでいることとか

ここ2,3日、帰社の時間が24時を超えるようになってきた。エンドのみ取り出せばまあ結構ヤバい会社だが、むしろ定時退社できる会社を疑っているくらいだけれど、その集団んにそれをし得る十分な動機やモチベーション、ミッションがあればそれは正当化される。

 

見ていると、たいていの企業というのは大なり小なり企業洗脳を施す場所になっている。企業洗脳の論理は、あくまで企業的倫理や論理から導かれているわけであって、それは個のパースペクティブから覗けば当然宗教のように見えるのだろう。

ところで、そういった集団洗脳にかかったらもうその後、ずっとその洗脳にかかり続けるのだろうか。そうした洗脳には持続性がないような気がする。だから企業内に居る限り、アップダウンでその洗脳は更新され続け、また独立すれば似たり寄ったりな洗脳を施すために、再びまた更新されているように見える。たとえば、制服や外装などの統一性は、そういった側面から納得している。

場所を変えれば思考方式が変わるように、持続性のない洗脳は、その環境から抜けてしまえばたいていの場合解決するのではないのか…。

 

【自分であること】

日系ブラジルや日韓系などの人種的二面性、あるいはそこから派生する言語的な二面性、個人への志向性を持ったまま集団単位での行動など、マクロからミクロまで、ぼくらは多くの二面性(もしくは多面性)を抱えながら生きている。「自分は何者なのであろう」という問いに対し、二元論的な立場で答えを得ようとする。

Enten-Ellerではないけれど、現代の社会性をたくさん吸収しているぼくらはやはり、個としての在り方を求めたいのだと思うし、そこに青春病やロマンティックイロニーなんかが起こったりして、病的なまでの、自分への固執から逃れられなくなってくる。

けれどそれは、どちらかでならねばならないという自己同一性という幻想からはじまるわけである。そして、それはロゴス的論理によって担保されているという前提を自覚せねばならない。すなわち排中律、Aと非Aのが同時に存在し得ないというわけだ。

 

火が現に燃えつつあるとは、どういうことか。薪が薪として燃えることはなく、火は単に火として燃えることもない。火が薪に点じられることによってはじめて燃えるということは、それぞれがたがいに他を待って、他に依って、自己の存在を表すこと(相依相待)を意味する。しかし、両者が相待的である関係において、火と薪は別々のものでなければならない。火は火として、薪は薪として、それぞれの自性をもたなければならない。しかし、そうした自性にとどまるかぎり、両者は独立であって燃えることは生じない。火と薪は自性を有しながら、また自性を失わなければならない。自性をもつと同時に自性を失うことによって、すなわち火が火として、薪が薪としての同一性を保つとともに、その同一性を失うことによって、はじめて両者の関係 —— 燃焼の事実 —— が成立する。

 

木岡伸夫『〈あいだ〉を開く』

 

 

つねに、個としての在り方は多面的で、複雑であると思う。少なくともぼくたちが生きている現代社会的に、つまりロゴス的には、何かを認めることは必ず何かを認めないことになってしまう。そういう在り方なのだ。

けれど、ぼくたちの身体性はそれほど理知的にできているわけではない、それに例えば燃焼をぼくたちの生とすれば、そこに薪もあり、火もあり、火があるために酸素もあり、枯葉も燃え集まる。

即ちぼくとは存在しているといえるけれど、それが何かというわけではない。生きながらに死んでいて、死にながら生きている、そういう「あいだ」の存在だ。じゃあ、その「あいだ」の存在であるぼくらが持っていたほうがいい感覚は、たぶんバランス感覚だと思う。

どちらにも揺れない絶妙な立ち位置、「あいだ」、そしてそれは太い幹をイマージュするのではなく、むしろ柳で、細く、揺れている。